山形浩生の喋(しゃべ)る姿というのは、テレビやYouTubeではあまり見たことがない。最近はラジオのコメンテーターもされているから声は知っている。そんな相手が、目の前で楽しそうに喋っている。会うことなんてないだろうと思っていただけに、僕はフワフワとした現実感のない、けれどインタビューを成立させるために必死な様相で会話を続けていた。
山形といえば毒舌の書評が有名なのだが、目の前にするととても優しそうな、そして真面目な人だ。ユーモアも彼のブログで目にするそれと変わらなくて、会話の途中でしょっちゅう笑いが起きる。僕にとっては想像通りの格好のよい著作家であった。
しかし、まだインターネットの話も、経済の話も聞いていない。時間は半分以上過ぎている。どの話も中途半端に切りたくはない。そんな緊張感を持ちながら、就職後の話を聞いた。
大学院での研究が発端になって、野村総合研究所への就職を選んだ山形。修士研究の取り組みからは、後に著作や翻訳を多く出される経済についての興味の片鱗(へんりん)が見えた。しかし、本格的な取り組みが始まるのはもう少し先の話のようであるし、インターネットはまだほとんど世に出ていない時代。
ここから、山形さんはどうやって、その2つへの興味を深めていくのだろうか。残りの時間で、就職、バブル崩壊、留学を経て変化していく「山形浩生の興味」を追っていく。
特集「あなたのキャリアに一目惚れしました。」
本特集では、取材者が「一目惚れ」したキャリアの持ち主にお話を伺います。就活に直接関係ない話も多いです。いつか、あなたがキャリアを決めるときの一助となることを願って、お届けしたいと思います。
今回の取材者・倉井さんと企画の相談を始めたのは昨年の冬。山形さんに取材をするまで、およそ半年間の準備をしました。現役のエンジニアである倉井さんにしか聞けない取材となったと思います。
今回の惚れられた人:山形浩生さん(作家、コンサルタント)
1964年生まれ。東京大学工学系研究科都市計画専攻修士課程修了。マサチューセッツ工科大学(MIT)不動産センター修士課程修了。翻訳家、作家、批評家兼不動産開発コンサルタント。東京大学在学中から海外SFの翻訳で名を馳(は)せる。コンピューターやインターネットに関連する翻訳やエッセイが多く、ソフトウエアエンジニアにもそのファンは多い。例としては『Hackについて』などは現在でも参照され議論に的になっている。また経済学に関連する翻訳でも著名。特にクルーグマンについてはノーベル経済学賞受賞前から日本への紹介を行っていた。近年ではケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(ポット出版、2011年)の完全翻訳版、要約版、超訳版がある。完全翻訳版、要約版についてはWeb上で無料で読むことができる。朝日新聞の書評委員を務めた他、各種メディアでの書評も多く、こちらも本人のウェブサイトで読むことができる。書評においては毒舌が有名ではあるが、その指摘の鋭さを評価する声も多い。文筆業の傍らシンクタンクのコンサルタントとして長年活躍しており、専門は不動産開発。年間の翻訳数の多さから、専業作家にならないことはファンの間では謎とされている。
今回の惚れた人:倉井龍太郎(ソフトウエアエンジニア)
1983年生まれ。北海道大学情報科学研究科博士課程中退。半導体産業、ソフトウエア産業の興亡を描いたNHKスペシャルの「電子立国」「新・電子立国」シリーズに影響を受け、コンピューターやベンチャービジネスの歴史に興味を持つ。また、パソコン通信に出会って以来テキストコミュニケーションの虜になっている。ソフトウエアエンジニアとしては、株式会社はてなでのWebアプリケーションエンジニア、科学技術振興機構での研究員、Magne-Max Capital ManagementでCTOなどを務める。Webアプリケーション開発とデータ分析が専門で、現在はクラスター株式会社でバーチャルリアリティSNSの発展のために勤務している。
<目次>
●新卒入社でバブルが崩壊
●インターネットと出会う
●フリーソフトウエアと出会う
●黎明期のインターネット
●可能性はゼロじゃない
●インターネットとの付き合い
新卒入社でバブルが崩壊
──野村総研を選んで入ってみて、実際やりたい仕事ができたのでしょうか。
山形:野村総研に入った年に、バブルがつぶれました。
僕は90年4月に入社したんですね。で、そのときにバブルが崩壊した。その当時は誰も崩壊だとは思わない。「あれ、踊り場に来たかなー」っていう程度の印象でした。そのまま落ちるとは誰も思っていないです。落ちても最初の年は、「まあちょっと落ちたよね、来年持ち直すよね」、二年目も「ここが底だよ」、三年目「さすがにここが底だよね」ってきて。四年目ぐらいに、みんなだんだん、「ちょっとこれは本気でヤバいんじゃないか」という感じになってきた。だから最初の頃にそんな焦りは全くなくて、テーマパーク開発がすごくでかい話で、野村総研にたくさん話が来ていたんですね。
就職して最初の半年というのは、当時はやたらに研修が長かったんですよ。三カ月ぐらい研修させられて。まあそれで、同期はすごく仲良くなったんですけど。そこから実際に配属になって、配属先でもいろいろあって、本格的にプロジェクトに取り掛かるのは90年も終わりになってから。最初の頃はね、コピー取りなどつまらない仕事をやっていて。
で、最初に配属されたのが成田なんとかビレッジという計画だった。それは成田空港の近くに、日本をテーマにしたテーマパークを作る。そこに成田空港のトランジットの観光客をどんどん連れていって、金を落とさせる。そういうプロジェクトだったんです。
でも、バブルが落ち始めた。依頼してきた某会社は、このプロジェクトはヤバそうだから潰(つぶ)してくれ、と言ってきたんです。潰してくれというのは、「採算性が合わないという結論を出すことによって、プロジェクトをなしにしてくれ」という話で。あれ、なんか風向き変わってきているなと思った。
次にベンチャーというべきか、変な企業の社長さん、自分の人生観を表現するテーマパーク開発に取り組みたいとやって来た。明らかに怪しい話なんですが、ずっと野村総研は右肩上がりで、大企業と公共ばかりを相手にやってきた会社だったので、実はそれまで顧客の与信調査をしたことがなかったんですね。
──今ではちょっと信じられないですね。
山形:だからそんな怪しげなものを平気でホイホイ受けてしまって、すごい体験が待っていた。
まずテーマパークのコンセプト開発をいろいろやりますよ、みたいな話を先方にして。「初期段階としてわれわれはここまでプランを作りました。ではお値段締めて、五千万円」とかいう、なんか吹っかけた概算を出した。そしたら向こうが、「いやー、高いねぇ、それ。で、どうする? 現金で持ってく?」っていきなり金庫を開け始めたんですよ。「えぇーっ」て上司はビビってしまって。半金は銀行振込でお願いします云々(うんぬん)って話をして、その日は帰った。ところが二カ月後に、いきなりその会社が倒産の危機って電車のつり広告に出てしまう。会社では部長が来て、「山形そのプロジェクト止めろ。もうやるな」と言ってくる。プロジェクトは当然中止になって。お金をどこまでもらうか、いくらもらうかみたいな算段をして、結局100万円ぐらいもらってそれで終わりになったんですよ。上司と「だからあのとき現金でもらっておけば良かったんですよー」って話を散々しました。やっぱり金はあるうちにもらえって、常識ですね。
──現金は現在価値が一番高いという話ですね。
山形:ですね。持って帰るなら手伝いましたからね。まあそんなで、とにかくお客さんが次々と、いくつか潰れていって、「なんか違うぞ、これまでとは全然話が違うぞ」っていうのが見えてきた。
その後来たものに、日本のリゾート法の制定(※1)ってのがありまして。いろんなところがリゾート作りてぇと言い始めた。で、大規模リゾート作りますね。そこでリゾートマンションがすごく盛んになって、でかい商売になった。マンションと、リゾートを組み合わせた高級リゾート開発しましょう。というのがすごく大きな話で、あちこちから、「この計画がものになるか見てほしい。」みたいな依頼がきた。
そういうプロジェクトにいっぱい入れられました。リゾートマンションを見に行ったり、値段とその収支の計算をやっていたりしたんですね。当時はすごくて、宿泊料っていうのは大体毎年3パーセントずつ上げていく。で5年ごとにまたさらにぼんと大きな改修して宿泊料を上げるみたいな話で。新人の僕はExcelまわして、「20年ぐらいすると、ホテルのあらゆるところが1泊10万超えるんですけど、これ大丈夫ですか?」とさすがに思う訳ですが、「いやいや日本経済、堅調だから大丈夫」ってそういう会話を皆がしていた。
(※1)……1987年に制定された総合保養地域整備法のこと。リゾート開発について税制上や融資の面で優遇される措置があった
山形:ところが、そのリゾートもいっぱい仕事を受けたのはいいけれども、次々にプロジェクト自体が潰れていった。そこら辺で、「もう少しちゃんとお金の話をしなきゃいけないよね」という話になってきた。バブル時代のわれわれが出す報告書っていうのは、ある意味では形式だけの代物だった訳ですよね。「野村総研が良いって言うから良いんじゃないですか。だからとにかくこれを進めましょう。どうせ儲(もう)かるから大丈夫」っていう話でもあったんです。けれど、だんだんそれが通用しなくなる。もう少しお金をちゃんと見なきゃいけない。当たり前の話ですけれども。バブルの頃は当たり前じゃなかったんですよ。当時は、とにかくいいに決まっている、やらなきゃ損、お金は後からついてくる、というのが常識だったんです。
「そういうのは変えていかなきゃいけないよなー。言われた通り宿泊料を毎年3パーセントで伸ばしているだけで、収支計画と言っているのはおかしかったよね」っていうのは、自分なりにだんだん見えてきた。住都公団さん(※2)など、他のところの開発プロジェクトを見ると、うちよりは、ましな、まともなことをやっている。
彼らは自分でお金出す側ですから、もう少しきちっとやりますよね。自分たちも、ちゃんとやらなきゃいけないよね。っていうのが分かってきて。「もう少し勉強やり直した方が良いんじゃないですかね?」っていうことになりました。それと、ひどい話だけれど、テーマパークとリゾートが次々に潰れて、山形が入るとプロジェクトが潰れる、みたいなことまで言われるようになり、目先の仕事がなかったこともあった。まだ当時会社にお金が余っていたので、会社の金で留学させてもらえることになった。
(※2)……住宅・都市整備公団のこと。現在の都市再生機構(UR)につながる、住宅開発を行う公的な機関だった
──それがMIT(マサチューセッツ工科大学)への留学ですね。何年くらいのことだったのですか?
山形:あれは93年に入ったのでした。うちの会社は入社三年目で10人くらい留学させるっていうルールがあった。就職のときの餌でもあったんですよ。うちに入れば留学させてあげるよ。みたいな。
インターネットと出会う
──MITに93年ごろに行くと、インターネットは向こうでは始まっている時期だと思うのですが、インターネットとの出会いもMITですか?
山形:インターネットはわれわれが会社に入った頃に、日本でも少し始まっていた。でも、まあ向こう行ってからですね。パソコン通信はMITに入る前にあって、パソコン通信経由でメールを見ることができる。インターネットにつなげなくはない。みたいな話はありましたが、ウェブはまだなかったし、まだ何がえらいのかピンとこなかった。でっかいパソコン通信ですか、くらいの認識です。
で、向こうに行ったらUNIX(※3)の端末をみんなホイホイ使えて、アカウントをもらってメールも使えて。インターネットというのは、パソコン通信とは全くレベルが違うのも見えてきました。そして93年、94年の辺りに World Wide Webがちょうど出てきて、それがMosaic(※4)というブラウザーの登場で一気に普及したんですよ。自分もMITのアカウントでMosaicをコンパイル(※5)しようとした。でも2MBしかハードディスクのスペースをもらっていなかったし、管理者特権もなくて全然駄目だったんですよね。
(※3)……WindowsやmacOSに代表されるようなOSの一種。歴史が古く、さまざまなOSの土台になった
(※4)……NCSA Mosaicのこと。画像とテキストを同じ画面に表示できる、世界で初めてのWebブラウザー。Mosaic以前にWorld Wide Webは存在しているが、テキストを主としたブラウザーで、現在のWebブラウザーのようなソフトウエアになったのはMosaicから
(※5)……Mozaicはソースコードで配布されたため、利用する側でコンパイルする必要があった。ソースコードの他に必要とするソフトウエアがあるなど、コンピューターの管理権限なしにコンパイルすることは難しかった
山形:そんな風にしていたら、突然MITの端末で標準で使えるようになったんです。ある日Mosaicというものがインストールされたので、「こういう風に使えるんだよ」ってメッセージが入ってきました。「すげー。すげー! なんでも見えてしまう。画像が全部表示されて、文章とすべてがリンクされている。すごい! ハイパーテキスト(※6)と昔言っていたけれども、そういう世界なんですか!」っていうのが初めて見えてきた。
またMosaicが入ったのと前後に、ダイヤルアップのインターネットっていうのが本当にどんどん出てきた。アメリカは電話かけ放題だったので、基本月20ドル払えばネットにつないで使い放題。それだけでもすごい世界ですよね。だから、もういくらでもインターネットにつないで、メールもいくらでもチェックして、MosaicとかFTPとかみんな使えるようになってしまった。「これはすごいわ。昨日まではのMITの端末に行かないとできなかったことが、うちの安っちいコンピューターでできてしまうよ」と言う時代がやってきて、おそれいりました。そして日々Webを見て過ごすようになったと。今に至る生活ですね。
(※6)……Web以前から文章と文章がリンクされ、読者は自在に行き来しながら閲覧できるという仕組みは構想されていた。なかでもテッド・ネルソンが提唱したものがハイパーテキスト
──その当時のアメリカで、これはインターネットが商売になるぞっていう盛り上がりみたいなのはなかったのですか?
山形:いっぱいありましたよ。むしろ、それしかなかった。インターネットで何かやれば儲かる。みたいな話は山ほどありました。ヤフーなんてね、最初のうちは「僕の見つけた面白いページ紹介」みたいなもので。検索はちょっとあったけど、ほとんど使いものにならなかった。でも当時はそれを見て、「あ、なんか新しいページが出てきた?」っていうそれだけで商売になる。人の上がりを紹介しているだけで商売になるっていう。そういうものがどんどん商売になって大きくなる世界だったんで、これはすごいっていうのはありましたよね。
──そのままアメリカに残ってインターネット関連の仕事をしようとは思わなかったですか?
山形:会社との契約で、戻ってきて五年はやめない。っていう約束があって。やめたら掛かった費用を全部返すっていう話でもあったので、それはありませんでした。一応、アメリカに行って、不動産とかファイナンスの理論とか勉強した以上はそれを多少は使いたいよね、というのもあった。まだインターネットがどこまで大きくなるかは分からない、という時代でもあったし、半分趣味の業界ではあったので、あまり仕事という意味では真面目には考えなかったですね。
フリーソフトウエアと出会う
──山形さんとフリーソフトウエアとの付き合いも、その後のお仕事に大きな影響があると思うのですが、MITの頃にはもう関わり始めているのでしょうか。
山形:はい。その頃にWorld Wide Webを紹介するペラペラしたファン雑誌を見ていたら(タワーレコードとかには、その手のファン雑誌の巨大な棚があったんです)、「Linuxとかいう、フリーのUNIX(OS)を配っている人がいるよー」っていう記事がでていた。「そんなこと、ある訳ねえじゃん。Unixなんてあんな畏れ多いもの、そんなホイホイ使える訳ないだろ、何言ってんだバーカ」と思って確認してみた。そうしたら本当に存在する。
「本当に使えるの?」と思って自分のPCにインストールしてみた。当時のノートPCはまだ高かったので、これで壊れたらどうしようと思って死ぬ気でやりましたけど(※7)。そうしたら「お、できた! 使えちゃってる」っていう体験があって。衝撃でした。それでドキュメント見たり、ユーザーグループに入ったりして、いろいろやっているうちに、日本でもLinuxを使おうとしている人がいるという。日本語を使えるようにする人たちがたくさんいるらしいというのが、だんだん分かってきた。
当時、東京Linuxユーザーグループというのは、なぜか日本にいる外国人だけの集会だったんです。そこにいる外国人の相手をやっているうちに、「あんなソフトウエアもあるよ、こんなものを日本語にしたら?」とか、「これ日本語で使うにはどうしたらいいの?」とかっていう、外国人と日本人の間に入るみたいな立場になっていって。そのうちに深入りするようになったという感じですかね。最初に訳したのは「LINUX日本語Howto」という文書ですが、非日本人向けに英語で書かれた、Linuxでの日本語使用マニュアルだったんです。でもそれを自分の勉強もあって訳したら、日本人にえらく感謝されたんですよー。
(※7)……世に出たばかりの Linux はインストールも簡単ではなく、失敗すると高価なノートPCが全く起動しなくなる可能性もあった。また、インストールしただけでは、日本語を扱うこともできなかった
──MITにいる頃のお話でしょうか?
山形:ちょうどいる頃ですね。帰る前から、帰った直後ぐらいの頃ですね。
──その活動がオライリーの『Linux日本語環境―最適なシステム環境構築のための基礎と実践』(オライリー・ジャパン、2000年)につながっていくのですね。
山形:あそこで一緒に書いた彼らは、みんな東京リナックスユーザーグループ、TLUGですね。そこのメンバーで、日本にいる外国人でリナックスを使っていました。
──その後、日本に帰られてから『クルーグマン教授の経済入門』(メディアワークス、1998年)を出版される訳ですが、それもMIT時代に目を付けていたのでしょうか?
山形:そうですね。MITプレスの販売所に、傷付いたゾッキ本、不良本を1冊1ドルで出しているカゴがあるんですけど、その中で拾った本だったという。
──そこに並んでいなかったら、あの本が日本語に翻訳されることはなかった。
山形:かもしれない。
黎明期のインターネット
──そんなMITから帰ってきて、日本の野村総研はどんな感じになっていたのでしょうか。2年間いなかった日本は。
山形:まず日本のバブルっぽいものは全部なくなっていて、最初はバブルの後始末。さまざまな開発について「やっぱり駄目です。やっぱり採算性はありません」っていう結論になるプロジェクトを次々に行う状況です。ちょっとそれは、大変でしたね。
一方で「日本国内が駄目ならば、外国の様子をみて来ようぜ、外国にチャンスがあるじゃないか」っていう話をちょうど野村総研も、われわれのお客さんになるいろいろな会社も始めた頃でもあった。今度はアジアに出ていこうぜっていう話をしていたんですね。ちょうどアジア経済は登り始めましたし。
野村総研も、マニラ支店をつくろうか、バンコク支店をつくろうか、みたいなことを一生懸命考えていた時代でした。結局マニラ支店を作った。そしてその過程で、日本企業が外国に進出するにはどうしたらよいですか? あるいはいくつかの国を比べて進出したい国はどこですか? というような分析をするようになってきた。そんな環境だと、勉強してきた不動産開発投資の話と、インターネットで情報収集できますという話が役に立った。
当時はインターネットがまだ出始めで珍しかったし、怪しいメールもあんまりなかった。だからメールアドレスをみんなおもてに書いていて、そこにメールするとみんな大喜びだった。「おおメールがきた!」って誰でも返事してくれました。お互い非常に面白い状況だった。おかげで情報も比較的他とは違うものが集められた。インターネット、コンピューター系の話と、不動産開発系の話と、留学してきた話とが絡み合ってうまくいったんですね。
ついでにバックパッカー趣味も合わせて、夏休みを取ってベトナムに遊びに行きました。ここは面白そうだと思って、現地にいる間に役所に行っていろいろ資料をもらって。帰ってきて、それをそのままレポートにして出して他社に売るみたいな。あるいは当時、香港で香港上海銀行に行くと、口座さえ持っていればアジア各地のカントリーレポートをほいほいくれました。当時は今と違って、平気で外国人が銀行口座を開けたんです。そういう大変趣味と実益を兼ねた良い商売ができた時代だったんですね。でも、それも安易な商売だったので、ライバルもだんだん増えてきた。
そんなところで、アジア通貨危機(※8)が起こったんですね。98年。で、特にアジア進出しましょう、外国進出しましょうという商売がまたここで大きく後退した。その後、その他に行き場所がなかったので、こういった外国進出の話と、それから不動産開発財務系の話が復活するまで頭を低くしていましょうということで、会社の中ではODA(政府開発援助)がらみの話がメインになっていった。でもそれがなまじ続いてしまったので、あまり海外投資の話は復活しなかったですね。
(※8)……1997年7月より、タイを震源としてアジア各国に伝播した自国通貨の大幅な下落および経済危機
──なるほど。今のお仕事にもつながる海外支援の話がそこから始まっているという訳ですね。ところで、MITから帰国された後というのは、平行してインターネットでも、たくさん文章を発表されていた時期だと思います。どういった目的や気持ちでインターネットを使われていたのですか?
山形:総研やシンクタンクって報告書を書くのが商売みたいなところなので、いっぱい文章を書いている。そのネタ集めの中でいろいろ出てきたものを「こんなのあったぜ!」って書いてみるというようなことをしていました。インターネットについては会社の中でも目の利くやつ、鋭いヤツが一生懸命「インターネット、これからはWebですぜ」みたいな話をガーガー言っていた。
当時の野村総研はすごく古いコンピューター企業で。今もそうなんですけれども、古い体質で大型コンピューターでCOBOL書いてバッチ処理する世界の人たちばっかりだった。「インターネット? 分散処理? あんなもん駄目だよ!」って言う世界。「コードなんか書けなくていいから、仕様書だけ書ければいいんだ」みたいな人が山ほどいて。「大丈夫かよー」と思っていました。
そしてインターネットに手を出そうという話になったときに、社内からも文句が出てしまう。野村総研ってシステム部隊と、シンクタンクが合体してできた会社なんですが、その両者を合体させようと言いつつ、なかなか合体できなかった。シンクタンク部門の僕の同僚で、インターネットに強かったやつが、「これからはインターネットで、新しいシステムで」というと、システム部門の方から「システムに口出しするな。おまえが余計なことを言うから、これからはインターネットだと言われてわれわれはいろいろ迷惑しておる」みたいな抗議が来る。そうはいいつつも、「でも世の中インターネットって言っているよ?」という話に当然なりますよね。
最初の頃はウェブページ自体が珍しかったから、詳しかったその同僚は「ウェブページ、1ページ50万で作ります」みたいな、ひどい商売を最初はしていた。すぐに買い叩(たた)かれて値下がりしましたけど。その後も次々にアイデアを出してはいったんですが、だんだん社内での邪魔者扱いに飽きて、彼は独立して自分でネット系の企業を起こした。それは良い判断だったと思う。
可能性はゼロじゃない
──山形さんは今でもウェブで盛んに発信していらっしゃいます。一方で昨年翻訳が出た、『デジタルエコノミーの罠』(NTT出版、2020年)(※9)が語るように、個人がインターネットに何かを発表したところでほとんど読まれはしない。という悲しい現実もあります。でも山形さんは、そのような中でも何か希望を持って発表されているように思えるのですが。
(※9)……マシュー・ハインドマン著 山形浩生訳 GoogleやFacebookのような大手インターネット企業が、トラフィックの大半を集めてしまう現状について、データによる実証と理論的な裏付けを行った本。原題は『インターネットの罠』
山形:まずやっぱり、パソコンの初期の時代、インターネット初期の時代全部くぐり抜けてきた人間としては、まだジョン・ペリィ・バーロウのサイバースペース独立宣言じゃないですけれど「技術によって個人の自由が拡大されて、今までとは違うことができるようになった」っていう思いはずっとあります。確かにインターネット全体で見れば、自分の文章は読まれないだろう。どこかの常に更新されているブログに比べれば読まれないし。どっかのユーチューバーの女の子が胸元開けると、それで一万、百万アクセスを稼ぐ。そういう風なものに比べると全然レベルが違うのは分かっている。分かっているけれども、ゼロではない。全く世に出なかった時代とは、多分違っているんでしょう。割合的にはゼロでも、絶対数ではゼロではない。
誰も何も言わない世界と、読まれなくても誰かが何か言う世界っていうのは、多分違うだろう、とも思っています。去年出た『インターネットの罠』では、「個人が発信しても読まれる可能性はゼロじゃないっていうけど、実質ゼロだよ」という。けれども、ゼロじゃないんですよね。その可能性くらいは維持しても良いのではないかと思う。誰も見ないから俺は何も言わない、何もしないないっていう話ではなかろう。一応、民主主義も、どこまで信じるかというのはありますけど、建前としてはたかが一票だけど、されど一票であるはずだ。っていう思いはあるので。俺の一票なんて意味がないとはいえ、そう思ってみんなが投票しなければ、民主主義は成立しないんです。
それに、書いた文章を読むかどうかはその人次第ですよね。相手次第だよね。という部分もある。読まれないのは自分のせいかもしれないし、相手のせいかもしれない。個人的には、読まない連中が馬鹿だっていう気持ちはあるけれど、もちろん、そうでないかもしれない。たまには、あー、俺のこれが駄目だったんだっていうのもあるし。
そして重要なのは、変なところで、今回のこのインタビューとかもそうだけれども、知らないところでつながりなり、影響なりっていうのが存在する可能性はあるということです。昔読んだ変なブログを覚えているとか、変なクラウドファンディングがあって、「これ何?」とか言って、まあ面白いから五千円ぐらいあげとくか、みたいなことをしていたら、「あれ、これ落合陽一だったのか!」みたいなこととかもあるので。そういう回路ができる可能性ぐらいは確保しておいてもいいと思うし。あと半分は備忘録的な部分もあるなと思っております。
インターネットとの付き合い
──そろそろお時間なので最後に質問にしますね。昨年、スターリンのインタビューの翻訳を公開されて結構な反響がありました。あのときにはてなブックマークも見ているように書かれていて。
山形:ちょっと見てましたね!
──はてなブックマークは自分がかつて関わっていたサービスだったのですごくうれしかったのですね。一方で、そういった読者の反応を、気にしたくない、見たくないという作家さんも多いと思うのですが、山形さんはそういった反応と、どう付き合っているでしょうか? というのが最後の質問です。
山形:一応見ます。見てなるべく反応するので、比較的反応する方だと思います。「バーカ」と言われて、「どこが?」って聞くと、ちゃんと言う人もいる。言わない人、逃げる人が半分ですけれども。言う人は時々参考になることを言うこともある。もちろん個人的には頭に来るものもあるので、朝起きて機嫌がわるいと、いきなりブロックしちゃう場合もあります。そうでないときもある。まともなやりとりになることもあれば、ケインズの要約本をつくったときみたいに、能登麻美子のファンに脅されて、「え、クソキモアニオタのおまえが、そんな見識があることを言うんだ? おそれ入りました」みたいなこともある。
真面目に受け取り始めるとロクでもないのもあるので、あまり、真面目になりすぎてはいけません。大体みんな、責任ある発言だと思って言っていないんだから。だけど横目で流しながら見るぐらいには、付き合い方さえ覚えていればよいと思うしね。またそこから何が出てくるか分からない。だから何でもほどほどに受け取りつつ、ほどほどに流すみたいなのが良いと思う。
現実の物理的世界だと遠くで何か言っていても、「なんかよく聞こえなかったな」で済まされるけれども、字になっていると、そのままストレートにはっきり読んじゃう。それが多くの問題を引き起こしています。それを適当に読み流し、現実世界の聞こえなさ加減を自分で作り出しつつ対応するのが重要なんだろうなと思っています。
──なるほど。自分の友人達も、山形さんとブログのコメント欄でやりとりをしているのを見ているので、それこそ初期のインターネットでメールをしたらみんな返信してくれた、というような雰囲気があって、個人的にはとても楽しんでいます。
山形:そういう時代の雰囲気はある。あるいは、まだ少し面白い人たちがいた頃の2ちゃんねるとか。大概はどうしようもない連中だけど、たまに何か面白い返事するやつがいるとかね。
クルーグマンのつながりのリフレ派でも結構そういういう人がいて、匿名掲示板あるいは、匿名じゃない掲示板で、銅鑼衣紋(ドラエモン)というペンネームでずっと投稿していた岡田靖さんとか。死んじゃいましたけれども。あるいは、いまだに正体の分からないいろいろな人が、結構高度な議論をしていた時代っていうのがある。
今はもう夢かもしれないけど、でもそういうのも可能ではあったし、また何かのきっかけで復活するかもしれない。という淡い期待はない訳じゃない。
──分かります。
山形:ということです。
──本日はありがとうございました。
*
コンピューターの話を軸に山形浩生のキャリアを聞いているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。経済の話も、翻訳の話も聞かなかったのは果たして良かったのか、インタビュー後もしばらく悩んだ。しかし、山形さんが楽しそうに話すコンピューターやインターネットの話や、建築の話をこれだけたくさん聞けたことに価値があると思っている。
バブル期の不動産開発への反省から、MITへの留学という流れは、山形浩生のその後の翻訳や著作、興味を良く説明していて、ファンとしてはとても納得の行くものだった。こうやって、マイコン少年だった山形さんは、経済書の世界でも活躍していくのだ。インターネットやLinuxとの出会いも、山形さんらしくて面白い。Mosaic をコンパイルしてみる、Linuxを動かせるように奮闘してみる。面白そうなものは、自分の力で動かしてみようとする姿勢は、その後のメイカームーブメントへの興味にもつながっている。
そして何より、個人の力が拡大されていくという、インターネットの力を今でも信じているし、淡い期待はあるという言葉は、インターネットを愛する一人として今、一番聞きたかった言葉でもある。
インターネットと個人の力を信じて、僕はソフトウエアエンジニアをもうしばらく続けてみようと思う。またインターネットのどこかで山形さんとお話ができるように。
<山形浩生さんが「おもしろいキャリアだと思った人」>
高須正和(著述家・コミュニティ運営者)
深セン絡みでよくつるんでいる、高須正和さん。彼はスイッチサイエンス社でバイヤーみたいな仕事をしていて、世界中のメイカーフェアを回っては人をつないでいる。世の中インフルエンサーとか、エバンジェリストとか言われる人がたくさんいますけど、僕は彼を見て初めて「エバンジェリストってこういう人なのね」と認識した。彼と初めて深センを回ったときには、「わー! ドローンがあそこに飛んでいて、キックスケーターが走っている! あそこで車が四輪で走って、マンホールが丸い!」みたいに彼がまくし立てていた。あとで考えると半分ぐらい言っていることは当たり前だけど、そのときは彼の雰囲気に驚いて、「スゲー! 四輪で車が走っているよ」みたいな気持ちになるんですよ。彼はそうやっていろいろつながりをつくりながら、自分の興味を収集していて、その積み重ねがある種の生きざまになっているっていうのが非常に面白い。一時期ノマドなど、いろいろ動き回るような生き方が流行(はや)りましたけど、でも実際はスタバに座ってネットを引いているだけだったりする。それでは、なかなか何も出てこない。けれど自分で動いて、まだネット化されていない部分の何かをつかんでくるとなると、これは面白いなと思っています。
【撮影:保田敬介 編集/佐藤譲】
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