「インタビュアーは好きな人に会いに行けて良いですね、羨ましい」と編集者の友人に話したところ、彼は「では、企画を立てて、インタビューの機会をつくるので、好きな人へ一緒に会いに行きませんか?」と返してきた。羨ましいとは思いながら、誰に会いたいのかはっきりしたイメージのなかった私は答えに窮してしまう。全く恥ずかしい。
会いたい憧れの人とは、誰だろう。
そんな人がいるとして、なぜ自分はその人に憧れているのだろう。
そんな問いを悶々(もんもん)と考えていた中で、浮かんできたのが山形浩生だった。
インタビュアーが所有する山形浩生が関わった書籍
今から20年以上前、『CODE -インターネットにおける合法・違法・プライバシー』(翔泳社、2001年)という一冊の本が翻訳された。黄色で分厚い、インターネットの規制について述べた重要な本で、当時のインターネットで大きな話題になった。ソフトウエアのソースコードと、法律という意味のコードをかけたすてきな題名のついたこの本を、私も購入した。最後まで読めずに本棚の肥やしにしていたのだけれど、大きく印象に残ったのはその訳者、山形浩生だった。
彼は野村総合研究所の研究員で、専門は不動産、翻訳は副業だという。こんなインターネットやテクノロジーへの深い知識が要求されるような本を、片手間で翻訳してしまう人はどんな人なのだろう? そんな疑問を持ちながら、その後の翻訳・著作を追い続けていると、山形の解説だけを集めた『訳者解説 -新教養主義宣言リターンズ-』(バジリコ、2009年)、安倍政権のご意見番だっとも伝わるポール・クルーグマンの『さっさと不況を終わらせろ』(早川書房、2021年)(翻訳)、スター・ウォーズを舞台に経済を語る『スター・ウォーズによると世界は』(早川書房、2017年)(翻訳)、美麗なSF絵本『エレクトリック・ステイト』(グラフィック社、2019年)(翻訳)、中国・深センでハードウエアを作る『ハードウェアハッカー~新しいモノをつくる破壊と創造の冒険』(技術評論社、2018年)(監訳)などなど、山形が紹介する、幅の広すぎる世界に私は魅了されてしまう。勿論(もちろん)、本人の刺激強めなエッセイ集『新教養主義宣言』(河出書房新社、2007年)、『要するに』(河出書房新社、2008年)も印象的で私の考え方に強い影響を与え続けている。
しかし、いったいこの人の興味は、どこから来て、どうしてこんなにも魅力的にうつるものばかりなのだろうか。その答えの1つは、コンピューターへの愛情なのではないか。私がコンピューターやインターネットに愛情を注ぐように山形も同じような気持ちを持っているのではないか。そんな仮説を胸に、20年来の憧れである著作家にインタビューをしたいと、私は件の友人に提案したのだった。
幸い友人は企画を面白がってくれた。その後は、山形浩生の年表を作ってみたり、改めて著作を読んでみたりとしばらく山形浩生漬けの生活が続く。コンピューターだけでなくて、やはり建築が好きなのだ。ということもよく分かってきて、山形への依頼書作りはなかなか大変だった。山形の名前を出してから半年たった頃、結局は技術の話をメインに半生をお聞きしたいという依頼書を書いた。編集者に連絡を取ってもらうと、すぐに本人からOKの連絡がきた。そうして全く信じられないような気持ちでいるうちに、取材当日がやって来たのだった。
初めて会う山形浩生は、飄々(ひょうひょう)としていて、でも真剣勝負を挑まれているような雰囲気がある。それは彼の文章から受ける印象と変わらないものだ。緊張して私の顔はこわばっている。
まずは山形浩生の青春時代から、コンピューターとの関わりを聞いてみよう──
特集「あなたのキャリアに一目惚れしました。」
本特集では、取材者が「一目惚れ」したキャリアの持ち主にお話を伺います。就活に直接関係ない話も多いです。いつか、あなたがキャリアを決めるときの一助となることを願って、お届けしたいと思います。
今回の取材者・倉井さんと企画の相談を始めたのは昨年の冬。山形さんに取材をするまで、およそ半年間の準備をしました。現役のエンジニアである倉井さんにしか聞けない取材となりました。
今回の惚れられた人:山形浩生さん(作家、コンサルタント)
1964年生まれ。東京大学工学系研究科都市計画専攻修士課程修了。マサチューセッツ工科大学(MIT)不動産センター修士課程修了。翻訳家、作家、批評家兼不動産開発コンサルタント。東京大学在学中から海外SFの翻訳で名を馳(は)せる。コンピューターやインターネットに関連する翻訳やエッセイが多く、ソフトウエアエンジニアにもそのファンは多い。例としては『Hackについて』などは現在でも参照され議論に的になっている。また経済学に関連する翻訳でも著名。特にクルーグマンについてはノーベル経済学賞受賞前から日本への紹介を行っていた。近年ではケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(ポット出版、2011年)の完全翻訳版、要約版、超訳版がある。完全翻訳版、要約版についてはウェブ上で無料で読むことができる。朝日新聞の書評委員を務めた他、各種メディアでの書評も多く、こちらも本人のウェブサイトで読むことができる。書評においては毒舌が有名ではあるが、その指摘の鋭さを評価する声も多い。文筆業の傍らシンクタンクのコンサルタントとして長年活躍しており、専門は不動産開発。年間の翻訳数の多さから、専業作家にならないことはファンの間では謎とされている。
今回の惚れた人:倉井龍太郎(ソフトウエアエンジニア)
1983年生まれ。北海道大学情報科学研究科博士課程中退。半導体産業、ソフトウエア産業の興亡を描いたNHKスペシャルの「電子立国」「新・電子立国」シリーズに影響を受け、コンピューターやベンチャービジネスの歴史に興味を持つ。また、パソコン通信に出会って以来テキストコミュニケーションの虜(とりこ)になっている。ソフトウエアエンジニアとしては、株式会社はてなでのウェブアプリケーションエンジニア、科学技術振興機構での研究員、Magne-Max Capital ManagementでCTOなどを務める。ウェブアプリケーション開発とデータ分析が専門で、現在はクラスター株式会社でバーチャルリアリティSNSの発展のために勤務している。
<目次>
●コンピューターと出会う
●カセットテープでプログラムを交換する
●自作マイコンをつくる
●人の手から、大型計算機へ
●都市計画の研究室へ
●野村総合研究所に入る
コンピューターと出会う
──山形さんといえば、『伽藍とバザール』、『ハッカーになろう』など、コンピューターに関係する翻訳も多く、ご自身の著作にも、『Linux日本語環境―最適なシステム環境構築のための基礎と実践』(オライリー・ジャパン、2000年)や、『新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち』(アスキー、2002年)があります。マイコン(※1)に中学生のときから触れられていたそうですが、コンピューターとの出会いはどのようなものだったのですか?
山形:なんでしょうねぇ、コンピューターとの出会いというのは。ガキの頃は単純にSFの世界のコンピューター。それから、でかい会社にはコンピューター室というものがあってガーガー色々やっているらしい。そういうイメージがありました。
僕が中学受験をしている頃、計算用紙に使うための紙が必要で。清水建設に勤めていたおやじが、コンピューター室のラインプリンター(※2)の出力をたくさんかっぱらってきてくれたんですね。おやじは全然コンピューター屋ではなくて、清水建設にCAD(※3)が入るのを十年遅らせたような人(笑)。「コンピューターなんか信用できない、見ろ斜めの線はギザギザになるじゃないか」と、ひどいことを言う。「おやじ、全然自慢じゃないよそれは」と、のちのち、酒を飲みながら伝えましたけどね。そんなおやじは僕のために会社の裏紙を持ってきてくれていたんですが、あるとき、色々な人の給料みたいなのが全部書いてある紙が紛れ込んでいて。「これはまずい」と、おやじは二度と持って来てくれなくなりました(笑)。その頃のコンピューターは、自分では触れなくて、専門家が扱うものでした。
その後、安田寿明さんの『マイ・コンピュータ入門―コンピュータはあなたにもつくれる』(講談社、1977年)、『マイ・コンピュータをつくる―組み立てのテクニック』(講談社、1977年)っていうブルーバックスの名シリーズがありまして。それを読んで「アレ、自分で触れるの? 作れるの?」っていうのが、やっぱり大きな転換でしたよね。
情報工学者の安田寿明さんがマイコンの自作を指南するブルーバックスの名シリーズ(大阪府立図書館蔵)。当時ベストセラーになり書店では売り切れが続出したという逸話が月刊アスキー創刊号に掲載されている
(※1)……マイクロコンピューターの略称。現在のパソコンに相当するような小型のコンピューターを指す。70年代初頭に現れた卓上に置けるサイズのコンピューターは、部屋1つを専有していた当時のコンピューターの大きさからするとマイクロと言えるだけの小ささであった
(※2)……プリンターの一種。ラインプリンターにもさまざまな種類があるが、現在普及しているインクジェットプリンターやレーザープリンターとは違い、文字は活字による打刻で、紙も用紙送り穴のついた専用の非常に長い紙が使われた
(※3)……Computer-Aided Designの略称。コンピュータの支援を受けて建築や機械、回路の設計を行うこと。またそのためのシステムを指すことも多い
山形:74年くらいのインテルの8080が出てきた、それを使ったマシンとしてAltair 8800が出てきたっていう頃ですと、それは雑誌で読むくらいの話でした。秋葉原に直接行けたりとか、実物を見たりとかいうのはあまりしたことがなくて。「こんなのが出てきたらしいぞ」と聞いていただけ。当時Altairとかパーソナルコンピュータとか言っても百万円だなんだって世界で、「安いと言ってもわれわれの手出しできる世界じゃないよな」って話ではあった。でも、中心のチップだけならば安いらしい、と分かった。勿論、安いと言っても当時の感覚だと十万円ぐらい。それでもこれはすごく安いという話だったと思います。
カセットテープでプログラムを交換する
──当時インテルの8080が1つ350ドル、為替は1ドル300円くらいですね。
山形:200円くらいかなあ。そのあと雑誌の『I/O』が出てきて、だんだんマイコンの作り方が世に出るようになってきた。「このぐらい大きさのワンボードで作れるよ」「LEDがチカチカするくらいなら簡単にできるんだよ」っていうのが出てきて。
僕のホビイストとしての進歩は遅れていたから、多分78年ぐらいに初めて『I/O』を見始めて、そういうものがあるのだと知った。当時ちょうど受験があったので、お茶の水の駿台予備校に行くとつまらない授業をサボって、秋葉原の方に行くみたいなことをずっとやっていました。駿台に行くといくつか受ける講義は決まっていて、受けたくない講義のときには、秋葉原の方に行った。どっかで『機動戦士ガンダム』の本放送だか再放送だかを店頭で見て、そこからラジオ会館にあったBit-INN(※4)を見に行くっていうのが大体のパターンでしたね。そこで、最初はチップを見て触ってLEDが点きます。というようなレベルの話をしていて。TK-80が出たときもLEDで電卓のようなことができますという話で、僕レベルの人間はふーんと思うくらいでした。当時の僕のハンダ付けは非常にレベルが低くて、あまりうまく動かず、できあいのものに触るくらいのことしかできなかったというのもあります。
(※4)……秋葉原のラジオ会館7階にあった、NECのサービスセンター兼ショールーム。TK-80の展示が行われ、連日プログラミングをしたい若者が集まっていたという
当時ちょうどアメリカから、PET 2001が出てきまして。PET 2001も高かったよなー。それから、ラジオシャックのTRS-80というのが物すごく安くて、安いといっても確か98,000円くらいの世界。それでも値段が随分下がってきて、しかもテレビがついて、BASICも使えて、という。これは、なんか違う世界だ。と思わせられた。その頃TK-80BS(※5)っていうTK-80をBASICが使えるキーボード付きのものに拡張するキットも出てきた。それをBit-INN で使って、『I/O』に載ったBASICのプログラムを自分で入力していて。そこにいる連中と、「おまえそれ入力してんなら、半分俺がやるから」みたい感じで、カセットテープでプログラムを交換していました。当時はインベーダーゲームの全盛期なので、それができなければ話にならない。自分たちでプログラムを書いて、「インベーダーゲームができるようになったぜ」と言ってお互いに喜んでいた。
──Apple IIも同じ時期に登場していました。
山形:Apple IIは、当時のすごい先進的な機械で、多分買うと60万とか70万とかそのぐらいしました。TRS-80が一番安くて、PET 2001が29万だか30万かそのぐらいでしたっけ。 Apple IIは60万くらいの世界です。同じラジオ会館の7階にあった色々な店でもAppleだけは、ガラスケースに入っていて、われわれのような高校生には触らせてくれなかった。そういう状況でしたよね。でもApple IIは、「カ、カラーが出る! すげー。メモリが48キロバイト! すげー」みたいな。当時はそういう感じだった。
(※5)……プログラミング言語BASICを動作できるように拡張されたTK-80。拡張によりメモリの増強が行われ、さらにキーボードや、外部ディスプレイが接続できるようになった
自作マイコンをつくる
山形:で、そうやって遊んでいたのだけれど、ちょうど大学に入る前だと思うな。まだ受験中のはず。その頃、ラジオセンターの地下で完全なApple IIの海賊版が出回り始めたんですね。基盤を完全にコピーして。それに使う部品、IC(集積回路)その他をセットにして、Apple IIと全く同じケースまでつくってセットで売っていたんですよ。それはキットだけ。でもふと横の店を見るとApple IIのROMのコピーなるものが売られている。で、それを組み合わせると Apple IIができてしまう。「おおおー!」って。それで確かね、まとめて99,800円、っていう。
当時売られていた海賊版Apple IIのうちの1機種。形はそっくりだが、ロゴがない、キーボードのカラーが微妙に違うなど相違点がある
──当時、山形さんはどんなCPUを使ってマイコンを製作していたのですか?
山形:当時のCPUを振り返ると、主流であったIntel 8080は、使うときに必要なクロック用のICが別立てになっていたんですよね。だからICを2つ使って色々加工しなきゃいけなくて、手間がかかった。一方Apple IIに使っていた 6502(※6)など、その元になったモトローラの6800はワンチップで全部できる。断然こっちの方がいいよ、ってなっていました。それから8080の方はザイログという会社が完全上位互換のZ80というのを出しまして、「すげーよ、おまえこっちの方が圧倒的にすごいじゃん。もうインテルの時代終わったぜ、ザイログだよこれからは」って言われていたんですね。そんな雰囲気でしたね。で、インテルはそれに対抗するために、8085ってチップを出したんですけれども。まあ命令セットが同じだし、どっちか選べって言われたら、そりゃZ80の方を選ぶよなっていう感じになっていた。
もうひとつナショナルセミコンダクターというところがSC/MP、スキャンプって言われていたチップを出していて。これは、今にして思えばキーボードをつないでマイコンを作るような代物ではなくて、むしろ高度な制御用に考えられたICだったんです。でも、みんな面白がって、それでもなにかできるじゃないかと、色々なコンピューターぽいもの作っていた。僕はひねくれ者だったし、お金がなかったので、そのスキャンプをいじって喜んでいたんですね。この頃に何かどうも、色々なアーキテクチャというものがあって、コンピューターの内部の構造についての考え方がある。それが具体的な電気的な回路にもある程度は影響を与える、ということが理解できてきたなという頃ですか。
(※6)……モステクノロジーが開発したマイクロプロセッサ。当時のマイコンで多く採用された
山形:そうやって自分で作るのが普通だったあとに、半完成品のワンボードマイコンが出て、その後にディスプレイまでついた完成品のTRS-80だ何だって言われてきた。その頃だと、まだ自分の必要な機能だけをチップからはんだ付けして作っていた。それで、そこらで売っているものよりはマシなというか、自分なりには良いもの、シンプルで良いものができる。そういう時代がしばらく続きました。その後だんだん、物事が進歩してきて、「もうチップから自作する時代は終わったね」っていうのが、PC-8001からPC-9801ぐらいのときですね。PC-8001ぐらいのとき、つまりまだ8ビット機だったときでも、かなり完成されたものを出されてしまった。すごい高度なBASIC(※7)が載っていて、買ってきたらスイッチを入れて、いきなり使えるっていう状況を作られてしまう。そうすると、ホビイストは企業にそろそろかなわんな、っていう時代がやってくる。
(※7)……プログラミング言語のひとつ。BASICがマイコンで動くようになる以前は、機械語と呼ばれる16進数の羅列を入力してプログラミングをすることが主だったため、英文に近い形でプログラミングできるBASICは相当に高度な言語であった
それに、Apple IIを見ているとやっぱり天才は違う。われわれとは違う世界がある、っていうのも分かってきた。ハード的にも、NECのTK-80を見ているとすごい部品が多くて細かく作っている。けれどもApple IIの基盤を見ていると、これだけの部品でできるの? という衝撃があった。部品点数で見てもダイオードやコンデンサの数が全然違うものができてしまう。
当時のプログラムっていうのは、カセットテープでデータのやり取りしていた。フロッピーディスクというものはあったんですけれども、天の上の偉い人が使うもので、われわれはカセットテープ。そこに、Apple IIが、初めて5インチのフロッピーディスクを出してきた。そのときの制御基盤が特にショッキングで、「え、IC1個しか載っていないけど、これで制御できるの?」っていう感じでした。ハードの作り方も、やっぱりスティーブ・ウォズニアック(※8)は本当に天才だった。ICは1つで、制御の大半をソフトの方に任せてしまう。色々違う世界があるんだな。っていうのが、素人なりにも分かってきた、という展開ですね。
(※8)……アップル社創業者のひとり。Apple IIはスティーブ・ウォズニアックの独力により設計されたといわれている
山形:一方で、あるところまでくるともうコンピューターは自分で作る世界ではなくて、でき合いのものを買って、そこでソフトを使うような世界に移行するんだな、というのは大学に入る頃にはだんだん様子が明らかになってきた。
そして人間の方でも、才能の差みたいなのがあるんだというのも、だんだん思い知らされます。同じ高校から、同じ予備校に行って、似たような行動をとっていたような連中は何人かいたんですね。でも、そいつらの中でもやっぱりレベルの違うやつは全然違った。僕はですね、雑誌に載っているプログラムをコピーして、ちょっとコードを変えればこんな風になるよとか、ここのコードを変えれば赤いものが、緑になるよとかそのぐらいの改変はできた。2つのプログラムをつなげよう、みたいなこともできた。けれども一緒に通っていた、ある同級生はいきなり自分で言語を自作するところから始めてしまう。彼は僕より金持ちだったので、なにか市販のマシンを買って、それにいきなり、一時、人工知能で使われたprolog(※9)という言語を実装してしまった。
(※9)……プログラミング言語のひとつ。当時人工知能の研究分野でよく利用されていた
──『新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち』に出ているお友達ですね。
山形:そうそう。僕はマイコンを始める前に、アマチュア無線やラジオ製作を少しやっていたんで、多少は電気回路を分かっていた。けれど彼は全然知らなくて、最初にマイコンを作ったときはAC100Vをラッピング用の細い線(※10)につないで、いきなり火事を起こしそうになったりして、わっはっは、これだから素人は駄目だなと、勝手に上から目線で生暖かく見守っていたんですよ。それなのに一瞬で学んで、一瞬で僕を追い越して、プログラミングのレベルも僕を超えて、はるか彼方(かなた)に行ってしまって。「わー、ちょっと、天才にはかなわねーよな」っていうのをそこで如実に見せつけられた。そして、大学に入ってだんだんコンピューターは使う側だよね。という感じになっていったわけですね。
(※10)……ワイヤラッピングと呼ばれる、電気回路の配線方法に使う電線。大きな電流を流すことは想定していないので、家庭用のコンセントに直結すると燃え上がるなど火事の原因になり得る
──大学時代にパンチカードやマークシートで大型機計算機上にプログラミングをしていた経験もあると著書にはあります。どのような体験だったのでしょうか。
山形:はい。大学の、特に教養時代の計算機実習はマークシートでやっていた。ちょうど色々なものの移行期だったんですよ、そのときは。端末(※11)がみんなにあるという状況ではなかった。
(※11)……コンピューターに接続するための画面とキーボードだけで構成されたマシンのこと。単体では計算能力はもたず、大型計算機に接続し入出力装置として使われるもの
山形:さすがにパンチカード(※12)は、カードに穴を開けるマシンがいるので、人手がかかるし機械もいるしお金もかかる。そのため、マークシート式でパンチカードを作って、それをカードリーダーで読ませるという方法で最初の演習はやっていた。ところがあるとき、「いやもうそんなのいいよ、端末をたたきなさい」っていう時代がやってきた。大型計算機は日立さんのVOS(※13)っていう、訳の分からんシステムが入っていたんですね。その端末で一生懸命キーボードを直接たたいて、オープンリール(※14)みたいな、巨大なテープに保存する。そういう時期が一瞬あって、半年後くらいに、「このでっかいリールはもう使わないね。小さいカセット式のリールに変えるね」って話になって。「うぉー、進歩しているぜ」って思った。その後、本郷の研究室に行った頃には、もうそんなのもなし。「フロッピーディスクに保存すればいいよ」っていう世界になりました。PC-98あるいは、富士通のマシンで動くMS-DOS(※15)上でプログラムを組んで、フロッピーディスクに保存する。あるいは大型機にネットワークでつないでプログラムを実行するっていう話になっていったんですね。
(※12)……指定された位置に穴を開けることでプログラムを表現していた、紙のカードによるプログラムの保存方法
(※13)……メインフレームと呼ばれる大型計算機に搭載されていた日立製のOS
(※14)……磁気テープがむき出しで大きなリールに巻かれたデータ保存装置。音楽用にも用いられたが、その後カセットテープに置き換えられる
(※15)……マイクロソフト社製のOS。80年代のパソコンでは最も標準的なOSだった
人の手から、大型計算機へ
──大学の研究室では都市計画の研究室にいらっしゃいますよね。その頃のコンピューターと都市計画はどのような関わりがあったのですか?
山形:まずCADがずっと入り込んでくるときだった。当時のCAD専用機というのは化け物のような巨大な機械だったのですね。それこそ真っすぐな線が引けない、斜めにギザギザになるという。そういう機械が入りつつあったので、色々CADを使った分析する。それから、都市計画でも交通系の計算となると、色々なネットワーク(※16)を組んで、それに重みをつけて計算するっていう研究がある。これは大型計算機でやらざるを得ない。ただ、だんだん、もう大型計算機でそんなことをやらなくても良い、PC-98のようなパソコンレベルでもある程度できるよ。って時代に移りつつある頃だった。だから、今までは大型計算機を使ってやっていたことを、PC-98で走るようにしました。というような話でも都市計画の世界では結構大きな成果として出てきましたよね。人口予測などその手の研究も全部計算でやらなきゃいけないし。
(※16)……ここでいうネットワークは、LANのようなコンピューターネットワークではく、都市と都市の関係などを抽象的に示すグラフ理論上のネットワークや、物理的な道路や鉄道などの交通網を指している
あとはそれをグラフィックに展開する作業です。ある敷地の中で、色々な規制があったときにどのくらい建物の容積を取れるかを計算したい。高さは制限されているし、日影規制っていうのもある。建物を見ると斜めに色々切られているものがありますよね。あれは日影規制といって、隣の敷地にもある程度は日が当たるようにしなさい。という規制があるからです。そういう規制があって、敷地境界はこのぐらいで、その条件下で一番大きく建物の床面積を作るにはどんな形にしたらいいですか? という計算をさせる。あるいは、建物がその地面に落とす影ってのはどんな感じになりますか? 4時間の日照を毎日確保するには建物がどんな形でなきゃいけませんか? みたいな話というのが、コンピューターで分析できるようになった。これまでは人間が、「ウーン、こんなものかな」みたいにやっていたことが、もう少し明確にできるようになってきた。
だから、今にして思えば当時の話っていうのは、人手でやっていたものが大型計算機でできるようになったということだった。そして大型計算機じゃなくて、パソコンレベルでもできるようになりました。というのが次の段階できた。さらにそれが、誰にでも使えますっていう段階まで下りてくるという、そのちょうど移行期にあった。都市計画はその数値的な計算の部分と、それをグラフィック、CAD的に表現する部分ということをコンピューターでやっていた。
あとは当然、文書作成、図表の作成ですよね。やっぱり。昔はグラフを作るというのは大変なことだった。論文ではグラフを入れなきゃいけない。表は一生懸命人手で書くんですけど。グラフにするっていうのは、グラフ用紙で自分の手で書かなきゃいけなくて、大変で。われわれは建築系ではあったので、きれいに描くことはできるのだけれども、手間だ。そこに出てきたのが、ロータス1-2-3(※17)。「なんだこれー、すごいー!」って。うちの研究室、その他学部の技官の人はロータス1-2-3のプロテクトをこっそり外して、コピーを作るみたいなことを、たくさんおやりになっていて。高かったですからね。当時1-2-3といえば10万円、20万円平気でしたから。そりゃーやるでしょう。あと当然ね、一太郎(※18)をみんなでコピーしまくって、それで文章を作っていた。
(※17)……現在ではマイクロソフトのエクセルにシェアを奪われてしまったが、80年代当初では最も普及していた表計算ソフト
(※18)……こちらもマイクロソフトのワードにシェアを奪われているが、当時は最も普及していた日本語ワードプロセッサ
だから当時の建築におけるコンピューターというのは、文書作成、グラフ作成、数値計算、それからCADみたいな話ですよね。コンピューターに何をやらせるべきか、人間とどう役割分担をすればいいのかみんなが模索している段階だったので、これは面白い世界ではありました。人がやっている作業を、「いやそんなのこっちでできるよ」とか、「いや、おまえらのやっているのは、データ量が2倍になっているから、2日かかるじゃねーか」みたいな話で喧嘩(けんか)し合ったりとか。
──そうやって「コンピューターを使いそうだ」というような予見があって都市計画を専攻したところはあるんですか。
山形:全然ないです。これは全然関係なかったです。コンピューターは半分趣味で、並走世界でもあるので。都市計画、建築は自分で面白いなと思っていて興味があった。それと、東京大学は進学振り分けって制度があって、成績で行けるところが変わってくる。行けそうかな? あと楽そうかな? というのを考えて。建築って細かい図面を書いて、0.1mmの線をピシッと引いて、「ここから一歩も出てはならん」という世界。けれど都市計画はね、マジックインキで、「ここら辺は何とか地帯〜」とやる。そう言っちゃ悪いけど、いい加減な世界。遺跡が出たら、「まずいねー、100メートルずらそ」なんて平気でやる。そういう話なので、雑で面白そうかな? と思った。旅行が好きだったので、街の雰囲気の違いに関心があったとか、親が建築系だったとかも多分影響があるでしょうね。そういう興味があったので、なんとなく都市計画の方に行った。あと潰(つぶ)しが効きそうだ。というので選んだという感じですかね。
──とはいえ、その当時、修士に進学されていますよね。当時はそれほど修士に行く学生は多くなかったのではないかと思うのですが、そんなことはないですか?
山形:そんなこともないです。まず当時バブルで。今後どんどん東京は発展するよと思われていたから、何をしても就職への心配は全くない時代だったんですね。今の人たちに話をするのは非常に申し訳ないですけれども。ある程度以上の大学での就職活動というのは、会社側から学生に接触するのを待つということだったんです。そうすると、「あそこの会社はケチだった、こんな安い飯を食わせた」というような話にもなって、まあひどかった。それだけで会社を選んだわけじゃないですけどね。だから就職的には全然心配がなかったので、修士に行くという手は当然あった。
それと、そのときに卒業設計を1回出し損ねて。それで留年しているんですね。卒業設計を途中までやったのだけれど全然仕上がらなくて。当日になって、「ちょっとできませんでした」って言ったところ、指導教官は「留年するしかないね」って。あとで聞いたら、「あそこで白紙でもいいから出していりゃ卒業させてやったのにさー」って言われて。「それはねえだろ、今言うかそれをー」って思いましたね。実はそのときに建設省(現・国土交通省)に入省が決まっていた。けれどその留年があったので、おじゃんになって。それで大学院に行ったという事情もあったんですよ。留年を1年したので、追加で1年まあ勉強したわけですよね。遊びもしたんですけど。それもあって、もう少しこのテーマを掘ってみてもいいな、という興味も出てきた。
都市計画の研究室へ
──大学院ではどんな研究をされていたんですか。
山形:うちの研究室は丹下健三研究室の成れの果てだったんですね。
──成れの果てとはおっしゃいますが、丹下健三研究室といえば広島平和記念公園や代々木競技場を設計した名門研究室ですよね。
山形:色々ね、名門の人がいましたけれども、その後人が変わってきましたから。三代目くらいです。当時の1つのポイントは、歴史的空間の保存というやつで。バブル期で色々古い建物が壊されて、昔の古い町並みが全部どんどん潰されている。「これはあんまり良くないんじゃないか、残した方が良いんじゃないか。でも残すのにしても、どうやって残せば良いんだ」っていう話が当然出てくる。「残せって言われたけど、俺は建て替えなきゃならん。だって建て替えた方が儲(もう)かるんだもん」と所有者に言われたら、それっきりになってしまう。どうしたら良いんだっていう話。
まあ多少ならば、「いや、そこは所有者が我慢しろ」と言うこともできる。でもあんまり金額がでかくなると「それは無理だよ。おまえ、百億やるっていうなら保存するけれども、それを諦めろっていうのだったら何か代わりに保証しろ」って話になる。すると、ある程度は公共が我慢して、「お金あげるから建物の保存をやって」ということになる。もう1つは規制。ここは住宅しか駄目、ここは工業、ここは商業みたいな住み分けをする用途地域での区分をする。そういった規制を先にかけておくことで、そこは20階建てのビルを、建てられない所ということにしてあるので駄目です。という形の規制もある。
それから時間がたってくると、「じゃあその建物を残しなさい、その上の部分に建つはずだった容積に関しては周りの建物に売ってもいいから」という話が出てくる。そうすると保存する建物の隣のビルが、20階じゃなくて30階建てられるようになる。そうしたら、10階分の儲けっていうのを、その土地の古い建物を保存した人にあげられる。そうやって権利を売買できるようにすれば、建物を壊さなくてもいいだろうという話になる。東京駅もそれをやっているんですけれども、建物ならばそういうやり方がある。
もう少し大きな町並みとか、目立つものは何も埋まっていない遺跡とかはどういう風にして保存したらいいのか? 公園にしたらいいのか? 何にしたらいいのか? という話もある。その手法を制度的に見る研究と、実際にある開発を例にして、実際にやってみたら、こんな感じにでき上がるんじゃないですか? という、ホントに図面を引く設計の研究と、両方ある研究室だった。
こういう風な建築はかっこいいじゃないですか? という設計の話と、その実現のために規制をかけて、一方では売買できるように経済の市場の仕組みを作る。そうやって物事を変えていくことで、世の中を少しずつ変えていくことはできるのかな。というきっかけが見えてきた感じですかね。
──古い建物をどうやって保存するかというのは今でも話題になりますが、当時から問題意識があったわけですね。
山形:当時バブルの頃なので、地上げで有名な一部のゼネコンさんは、まあひどい。壊すときには、本当にトラックで突っ込むという世界で、ボコボコ建物を壊していた。一方で何が何でも古い建物を保存しろというのもおかしい。どうしようか、どっちが正しいのか? っていうのはずっと論争があって、いまだに続いている。それは決着が付かない話ですよね。でね大体、みんな自分のお父さんたち世代の建築は嫌いで、お爺(じい)ちゃんたちの世代のものを良いと思う。父親との確執が常にある。
だから今、昭和の名建築を守れ! みたいな話が出ているけれど、少し前の前世紀末辺りには、「あんな昭和のアスベストまみれの、コンクリートの塊みたいな、ああいうダサい建物は早く壊さなきゃ駄目だよ」みたいな風潮もあった。勿論その前の世代は、五十年代、六十年代のコンクリートの団地とかアパートとかに対して、「あれやめてほしいよね。あんなの早く壊さなきゃ駄目だよ」と言っていた。でも、後になると「やっぱり風情があっていいんじゃない?」みたいなことをみんなが言い始める。
都市計画の世界だと、みんな電柱をやたらに嫌うんですね。でもしばらくすると、「いや日本のアニメでてくる電柱、あれいいよね」ってみんな言い始める。
──『新世紀エヴァンゲリオン』でもよく登場しましたね。
山形:まあ昔からそうなんですよ。今、素晴らしい町並みと言われているベニスにしてもバルセロナにしても、ルネッサンス様式の建物ってかっこいいよね、みたいに言われている。でも、当時の文献を読むと「最近のルネッサンス様式は軽薄でどうしようもない。あんなの目玉が腐るから潰さなきゃ駄目だよね」と平気で書いてある。世の中変わっていねえな、って。
だから保存の難しさっていうのは、保存したいと今言っているものが、実は十年前ぐらいに、「あんなの壊さなきゃ駄目だよ」って言われていたものだってところで。「いつの間にそれ重要になったんですか」とか、「たまたま声の大きい人が言ったので色々変わった」とかいうことが起きる。常識も変わってしまう。
そして、あとから責められるっていうね。「何でおまえあれ壊したの? おまえ、あの価値が分かんなかったのか?」と言って。よく見ると「そう言っているおまえも、壊せって言っていなかったっけ?」みたいな話も出てくるんですね。そうやって何が良いかという基準も変わるので、保存はすごく難しい話なんです。一方で町並みを揃(そろ)えろともいうし。揃えるのがいいのか? 新旧混じり合うのがいいのか? どうする? っていう。
野村総合研究所に入る
──そういった研究をされていた中で、どうして野村総研を選ばれたんですか。
山形:そういう保存に関連する研究をしていると、建物を保存するには当然、付随する活動なりも保存しなきゃいけない場合が多々ある。昔の歌舞伎座は面白い建物かもしれないけど、別に歌舞伎を上演しない歌舞伎座ってあまり意味のないところですよね。多くの場合、建物を保存しろというのは、そこに伴う文化活動を保存しろという話なんです。だから、文化全般合わせて保存したいね、っていう話になるんですね。
修士研究のために、そういった文化保存について各国の制度を調べていたときに、ちょうど大学の同期のやつが野村総研にいて、「山形、バイトをしろ」っていう話になった。そのときの野村総研が何をしているのかというと、ヨーロッパやアメリカの文化政策の調査をしている。彼らは文化庁の白書、つまりわが国の文化政策のナントカっていう文章ですけど、その執筆の下調べを請け負っていたんです。下調べというか実質的に書くも同然なんですけどね。そういった白書においては、各国の事例を調べて、各国ではこうなっておりまして、わが国の現状がこうだから、つきましてはわが国もこうしましょって形に書くわけです。文化庁はそういった各国の事例を調べようとしていた。野村総研はそれを請け負って、さらにヨーロッパやアメリカの下請けに、文化政策について色々調べて資料を集めなさい、という指令を出していた。そして、つきましては段ボール箱が3箱ぐらいやってきたと。英語文献、資料、色々入っているから、バイトのおまえがそれをまとめろというわけです。でバイト料30万円! 「え! ヤッター!」みたいな。
今ならね、「これで30万はないだろ!」っていいますけどね(笑)。まあ、学生にとっては素晴らしい。特にちょうど修論書かなきゃと思って調べていたら、棚からボタ餅が降ってきた状態です。「全部調べがついているじゃないか!」って。これは素晴らしい。だから勿論、はいはいやりますって請け負った。
で、見て、まとめて、レポートを書いて先方に出して。しばらくしたら、野村総研から連絡がきた。「レポートありがとう。ついては文化庁さんから斯々然々(かくかくしかじか)で質問がたくさん来ておる。海外の下請けのところにこの質問を送るので、おまえはこれを訳せ」というんです。それくらい自分でやらないの? と思ったけど訳して送りますよね。で、しばらくしたら当然ながら、「下請けから返事が来たからおまえはこれを訳せ」って連絡が来る。あんたら何やってんだ? ただ間に入って右から左に流してさ。これなら俺できるよ。っていうか俺ならもっと安く上げてやるよ。ここら辺自分でやるからさ、って思いますよね。どうも野村総研が、随分ボロい商売をしているらしい。これは楽でいいなあ。しかも、ちょうど自分の関心に当てはまったものが、降ってきて、それで論文を書けたので素晴らしい。こんな楽なことはないじゃないか。……それで野村総研に行くのを決めた(笑)。
当時は本当にバブルの真っ最中だったので、都市開発っていうのがすごくでかい話になるというのは、当たり前のことだとされていました。東京も、東京湾の真ん中に島を作ろうとか、大成建設が高さ1km、2kmの巨大な建物を建てるとかいう話を出していた。そういう空想未来みたいな話と、色々な仕組みの話を構想したい、という話を投資開発では色々やっていて、その半分ぐらいはシンクタンクや総研といった下請けに出されていた。これは建設業界に行ってやるよりも、シンクタンクの方が面白いかもなあ。というのもあったし、仕事と言えば右から左に色々なもの流しているだけの、今流行(はや)りの中抜き商売で、「いいねこれ」っていうのもあって。そして、野村総研を受けてみたら受かってしまった、という感じですね。
──他にどこかを受けようと思っていたんですか?
山形:公務員試験は受け直して、行こうと思えば建設省には行ける状況ではあった。希望は出さなかったですけど。それと当時、さるやんごとなきお方が死にかけていて。あるとき、いきなり宮内庁から電話がかかってきた。「あのー、うちに来る気ないですよね?」ってすごい諦めモードの電話。でも、「ウーンちょっと考えさせてください」と返事をしまして。「今行くと、あれがあると、古墳の設計をすることになるわけ!?」みたいなことを考えた。そういう話を周りにしていたら、「それ、殉葬させられるから辞めるように」みたいな話になって。多分殉葬はさせられなかったと思うんですけど、まあそんな風に考えていた(笑)。
あと、ゼネコンさんは大成建設。清水はおやじが、おまえは来るなって言うし、自分もおやじと一緒はいやだったんで受けなかった。それと日本製鉄。日本製鉄は当時、北九州スペースワールドなど、工場の跡地を使ってもっとでかい開発をたくさんしよう。という話を色々考えていた時期だった。そういう新しい開発をこれからどんどんうちでやるので来てください。みたいな話があった。これは面白いかもしれない、と思ったけれど、行かなくてよかった。あとは総研、シンクタンクでニッセイ基礎研究所辺りを受けた。そのぐらいです。
冒頭にある70年代後半からの自作マイコンの話は、当時の大きなブームで電気街やデパートのマイコンショップには若い大人から小中学生までがコードを打ち込みにくる姿が見えたという。80年代生まれの私は当然知識としてしか知らない。当時の様子を語る山形さんはとても楽しそうで、彼もまたマイコンブームから生まれた優れたエンジニアの一人であるのだと思わせる。
このままコンピューターの話で進むかと思いきや、大学時代では、そこから一転すっかり建築の人に。丹下健三の弟子筋だったとは知らなかった。アルバイトを契機に野村総研を就職先に選ぶというのは、インターンを経て就職先を探す現代の大学生と変わらないところがあって、面白い。全く個人的な話であるが、自分の親も建築関係でCADが身近にあったことから今のソフトウエアエンジニアのキャリアを選ぶきっかけになっている。親の影響も受けながら、建築を選んだ話はなんだか少し距離が縮まったような気がして嬉しいものだ。
コンピューターと建築という山形さんの著作を特徴づける2つの要素は出てきたけれど、もう1つの柱ともいえる経済の話は片鱗(へんりん)が見えてきただけだ。その後の本職となる不動産開発や海外支援の話はここからどうやってつながってくるのだろうか。そしてなんと言っても、インターネットとの関わりはどこから始まっているのだろう。
後編では、バブル期の職場の話からMIT留学、インターネットとの出会いについて聞いていきたい。
記事中で掲載した70年代のコンピューターやマイクロプロセッサ、そして雑誌I/OとASCIIの写真はいずれも、『夢の図書館』所蔵のものを撮影している。当時の雰囲気を垣間見られる貴重な空間になっている。
(後編へつづく)
【撮影:保田敬介 編集:佐藤譲】
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