子どもと人形遊びをしたときのことだ。
手に持っているのは人形だけなのに、いきなり「はい、ご飯」と呼びかけられ、思わず呆然(ぼうぜん)としてしまった。
私の視界には2体の人形しか目に入っていなかったが、子どもはいつのまにかキッチンとテーブルを作り上げ、自分だけの世界を楽しんでいたのだ。
子どもの想像力の豊かさに、あらためて驚かされた。
子どもが無邪気に遊ぶように、「仕事」に取り組むことはできないだろうか。そんな疑問を胸に、編集部は「遊びと仕事」を越境するための思考を探ってきた。
今回お話を伺ったのは、東京学芸大学副学長にして、遊びを学問として取り上げる「遊び学」の研究者、松田恵示さんだ。
松田さんは取材に際し、何度も「現代人はとにかく遊ばなくなった」と危機感をあらわにした。編集部は、松田さんが研究対象としている「遊び」にフォーカスしていくとともに、「遊びを仕事に」するために、明日からできることを聞いた。
特集:「遊び」とビジネス
「遊び」とビジネスは相反する概念として捉えられることが普通だ。しかし、ビジネスで成功を収めるトップランナーのなかには、本業と同様、ゲームやスポーツなどの「遊び」に熱狂する人が少なくない。本特集では、「遊び」から学べる仕事術やキャリア論をひも解いていく。
【本記事の見どころ】
●失敗を楽しむ「遊びの精神」が人間の文明を作り上げてきた
●SNSでの晒しや叩きは、現代人から「遊ぶ」安心感を奪う
●遊びの精神を身につけるコツ──「遊びの師匠」を見つけてをまねしてみよう
●「遊び」は悪者ではなくなる。学生よ、存分に遊べ
失敗を楽しむ「遊びの精神」が人間の文明を作り上げてきた
──今日は「遊び学」の研究者として知られる松田先生に、「遊びと仕事」の関係性についてお伺いします。そもそも「遊び学」とは、何を研究対象とした学問なのでしょうか?
松田:「遊び学」と聞くと、おもちゃやゲームなどの「形式的な遊び」を想起される人がいますが、そうではありません。遊び学が研究対象としているのは、「遊びの精神」。私は、「遊びの精神こそが人間の生活や社会、ひいては文明や文化を作り上げてきたのではないか」という研究のもと、人間が向き合うべき「遊び」のあり方を模索しています。
松田 恵示(まつだ けいじ):1962年、和歌山県生まれ。「遊び学」提唱者にして、東京学芸大学 副学長。専門分野は社会学(スポーツ・教育・文化)と教育研究(体育科教育/教育支援)。社会意識論の立場から、主に「遊び」や「学び」を対象に、学校教育のあり方から玩具開発、テレビゲーム分析など、幅広く研究をおこなっている。(情報は初掲載時のものです)
──「遊びの精神が文明を作り上げてきた」とは、どういうことでしょう?
松田:遊びの精神を一言で説明するならば、「失敗を楽しむこと」。例えば小さい頃、積み木遊びに熱中した人も多いと思いますが、崩れてしまうからこそ、「次はもっとうまくやろう」と楽しむことができる。テレビゲームも、簡単にモンスターが倒せないところに、「攻略法を見つけてやる」と躍起になれる面白さがある。
私たちの文明は、そうした先人たちの「好奇心」や「失敗」の上に成り立っている。これは遊び研究の先駆者、ヨハン・ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス』でも言及されていますが、勝手に例を出せば、肉を「焼いて食べる」ことを発明した人々には、「肉を火に近づけたらどうなるんだろう……」という好奇心があり、中には「失敗」しておなかを壊した先人もいたはず。そうした「遊び」からわれわれの生活が生まれ、文明が育ってきたんです。
──そう聞くと、「遊び」がものすごく壮大なものに思えてきました。
松田:文化や芸術の中に、「作ろう」と思って作ったものなんてほとんどないと言っていいくらい。ほとんどが目的もなく、とりあえず「面白そう」でやってみたら、いつの間にか文化になっていたものばかり。逆に言えば、遊びの精神が失われれば、文化は衰退してしまう。
しかし、私は現代人の多くが「遊び」を忘れてしまっている感覚を受けます。ホイジンガも、「効率」ばかりを問う労働が人間の根源にある「遊び」を失わせてしまうと批判していますが、「遊びって何の役に立つの?」が先行して、のびのびと遊ぶ機会が失われているのではないでしょうか。
SNSでの晒しや叩きは、現代人から「遊ぶ」安心感を奪う
──では、現代人が忘れかけている「遊び」とはどのようなものなのでしょうか?
松田:美学者の西村清和先生が著書『遊びの現象学』の中で触れていますが、遊びとはまず「隙間と反復する動き」(遊隙)があることです。先述したゲームで言うならば、クリアできていない間は「できそう」と「できない」の間で心が揺れ動きますよね。こうした「隙間」と「動き」(遊動)が生じているからこそ、人間は「夢中」になる。つまり、遊べるんです。
こうした「隙間」ベースでの「遊び」の捉え方は、あらゆるシーンに敷衍(ふえん)できます。例えば、恋愛ドラマを観ていると、浮気をしている女性が「あなたとの関係は遊びだったのよ」と吐き捨てるシーンがあります。これは、本来「1対1」であると決められている交際に浮気相手を生み出して、二者の間でふらふらと動く「隙間」を楽しんでいる。だから、「遊び」と呼ばれるわけですね。
──その定義にのっとると、逆にカチッとルールや計画が決まっているものは「遊び」とは呼べないということでしょうか。
松田:そう思います。よくスーツなどのフォーマルなファッションに、ちょっとしたおしゃれをいれることを「遊びを施す」と言いますよね。これは形式化された服装に「隙間」を見つけ出すことで楽しんでいることを指しています。
また、西村先生はこうした「遊び」を楽しむために忘れてはいけないこととして、「独特の関係」(遊戯関係)、私なりに言い換えれば「安心感」を挙げています。たとえば、ジェットコースターに乗ろうとしているのに「4回に1回はネジが外れて落ちる」と言われたら、楽しく遊べるわけないじゃないですか(笑)。存分に「隙間」を楽しむためには、「これは遊びである」と思える安心感が不可欠なんです。
松田:その点、昨今はSNSで「失敗」が取り上げられ、世間から叩(たた)かれるといった現象をよく目にします。許されないことをして怒りを覚えるのはわかりますが、失敗をしない人間なんていないでしょ? SNSによる、永久に記録されてしまう「晒(さら)し」や「叩き」は、多くの人に失敗への恐怖を植え付け、遊びの精神を奪ってしまっていると感じています。
──批判を恐れることが、現代人から「安心感」を奪っているのかもしれないと。
松田:はい。現代を遊びに例えるとすると、「おままごと」をしている人たちに「それ、食べられないよ」「なんでそんなつまらないことしてるの?」とヤジが飛んできているようなものです。こんな状況で、誰もが安心して何かに夢中になるのは非常に難しい。近年、小中学生もSNSを扱うようになり、子どもたちからも「遊び」がなくなっている危機感を感じています。もちろん、逆にSNSで「遊ぶ」強者もいるとは思いますが。
遊びの精神を身につけるコツ──「遊びの師匠」を見つけてをまねしてみよう
──仕事とプライベートの境目をなくし「遊ぶように仕事をする」といった言説が増えてきています。「遊び学」の見地から、この流れについて思うことを教えてほしいです。
松田:先述した「隙間の反復」にのっとると、自分が夢中になれる「遊び」を仕事にしているのであれば、仕事とプライベートの境目は必要ないのだと思います。まさに僕がいる研究の世界なんて、「遊びを仕事に」している人たちばっかり。僕の大学にも、ある昆虫の研究者がいますが、研究室に昆虫を何万匹も飼っているんじゃないか疑惑を持っていて(笑)。毎日顕微鏡で足の長さを計ったりしているんじゃないかと(笑)。こんな研究、好きじゃないとやってられないでしょ。でも、その「好き」が生み出す成果って、本当にすごいんです。
逆に、今の仕事にそこまで没頭できていないとしたら、いたずらに「遊ぶように仕事」することを目指しても消耗してしまうだけだと思いますね。そういう人は「ワーク・ライフ・バランス」じゃないけど、しっかりと境界線を引いた方が、充実感は上がるんじゃないかな。
──「働き方」が選べる時代、「せっかくなら夢中になれる『遊び』を仕事にしたい……!」と思っている学生は多いと思うんです。自分だけの「遊び」を見つけるために、学生時代にできることはなんでしょうか?
松田:最近の学生を見ていると、自分の直感で「おもしろい」と感じることよりも、「情報」を優先している気がします。就職に有利かどうか、将来の役に立つかどうか……。調べること自体は悪くないですが、人生の選択を「情報」に頼ると、「遊びを仕事に」からは遠ざかってしまいますよね。自分の内なる声ではなく、外側の意見ばかり気にしても、「正解」を教えてくれるわけではありませんから。
「遊び」への第一歩としては、人に誘われたり、自分で見つけた遊びの機会を食わず嫌いせずにチャレンジしてみることが大切だと思いますね。「分からないから、やらない」のではなく、「わけわかんないけどやってみよ」と思えるだけで、いろんな遊びに出会えるし、結果的に自分のことを深く知れるんじゃないかなぁ。
松田:それでも、いきなり自分の意思で遊びを選ぶことに不安を感じる人がいたら、「遊びの師匠」を見つけてみるといいかもしれません。身近にいるサークルの先輩でも、メディアに出てくる人でも、「伸び伸びしてて楽しそうだなぁ」と思う人の思想をインストールし、徹底的にまねる。ゲームもクリアできなかったとき、上級者のプレイを見てまねたりするじゃないですか。そんな感覚で、「遊びの師匠」を見つけてみて欲しいですね。
「遊び」は悪者ではなくなる。学生よ、存分に遊べ
──そもそも、なぜ松田先生は「遊び学」を始めようと思ったのでしょうか。
松田:僕自身、子どもの頃から「遊び」と「そうじゃないもの」を分けることに違和感を感じていたんです。わくわくするのが遊びなら、勉強も遊びのはずなのに、「遊んでばっかりいないで勉強しなさい!」と、「遊び」だけが悪者扱いされている。そんな子ども時代の違和感が、遊び研究の原体験になっていますね。
また「遊び」に近い分野として、スポーツ教育の研究も進めています。「スポーツ」の語源って、中世の言葉「disport」からきていて、もともとは「運ばない」という意味なんです。この言葉は当時、船から荷物を降ろす労働を指しており、「スポーツ」は「仕事ではないもの」を意味する言葉だったんですね。
──まさに「遊び」ですね……!
松田:そうそう。スポーツと聞くと運動全般だと思いがちですが、原義にのっとるならば、「仕事ではないもの」。ですが、近代における産業化とともにスポーツが「体育教育」となり、規律を守る生徒を育てるものにゆがめられてしまっていたんです。たとえば、体育座りなんかも、騒がしい子どもを動かなくするためにはうってつけの座らせ方なんですね。
松田:ただ、近代社会が限界を迎え、自ら「遊ぶ」ことが歓迎されるこれからの世の中で、遊びは「原点回帰」を迎えるのかもしれません。だから学生たちは「労働」に向かうのではなく、自分だけが面白がるだけではない、スケールの大きい「隙間」をみつけてほしいと願っています。そういう意味でも、学生時代は存分に「遊んで」ほしいですね。
【取材・執筆:半蔵 門太郎(モメンタム・ホース)/編集:小池真幸(モメンタム・ホース)/撮影:岡島たくみ(モメンタム・ホース)】
【特集:「遊び」とビジネス】
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<ミラティブ 赤川隼一氏>
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<東京学芸大学 松田恵示氏>
・「遊び学」研究者が考える、遊ぶように仕事をする方法
※こちらは2019年7月に公開された記事の再掲です。