「心から仕事を楽しんでいる人? そんな人、いないよ」
その言葉を聞いたときの、彼女の表情を想像すると、私は胸が痛くなった。彼女は今、21歳の就活生。友人から「太陽のよう」と形容される愛嬌(あいきょう)のある笑顔は、誰の心も引きつけるものがあった。
──心から仕事を楽しんでいる人なんて、いない
果たして、これ以上に、残酷な言葉のナイフが存在しているだろうか。もしもこの言葉が真実であれば、人はいったい何のために生きているのか。人は何のために勉強し、大学に行き、働くのだろうか? すべての努力は「心から楽しくない仕事」のために行われているのだろうか?
彼女の顔を見つめながら、私は、自分が会社を辞めた日のことを思い出し、自らに問い掛けた。
いったい、いつから「仕事は楽しくないもの」になったのだろうか?
仕事を楽しむかどうかは、「会社の形態」によらない
これまで、数多くのトップランナーと呼ばれるビジネスマンに話を聞いてきた。彼らの特徴の一つは「仕事を味わい深く、楽しんでいること」だ。彼らはいつも、自信と謙虚さを1対1でブレンドしたような表情で、物事を語る。その中でも最も印象的なセリフは、サイバーエージェント取締役の曽山氏の言葉だ。
北野:もしも曽山さんに、21歳のお子さんがいて、今、就活をしていたとすればどんなアドバイスを送りますか?
曽山:「大量に社会人に会え」ですね。とりあえず会って来いと言うと思います。「自分の1次情報で決めろ。自分が体感したもので決めろ」と言います。そして、その中で、楽しそうな人を見つけてほしい。有名企業で働いていて楽しい人、有名企業で働いていて楽しくなさそうな人、無名の会社でも楽しそうな人、いろいろいると知ってほしい。その上で迷ったら「一生仕事するとしたら、どれがいい?」と問いかけると思います。
そう、私はこの言葉を彼女に伝えたかった。仕事を楽しんでいるかどうかは、会社の形態には関係しない! のだと。
崩壊した「仕事観」の前提にあるのは、「学習観」
私は、冒頭の彼女に話の続きを聞いた。そして驚いた。というのも「心から仕事を楽しんでいる人はいない」という言葉を語ったのは、誰もが知っている大企業に勤める社員だったからだ。
これはおかしな話だ。彼らはたくさん勉強してきたはずだ。勉強してきたということは、それだけ「できること」が多いはずだ。できることがたくさんあるのに、仕事が楽しくならないわけがない。
だが、いつからか、人は楽をするために学問をするようになった。そういう大人たちは、楽をするために有名企業に入る。そんな環境で楽しいことが起きるわけがない。自分も楽したい、相手も楽したい、皆が押し付けあう世界で楽しい空間が生まれるわけがない。「できるだけ、自分が楽になりたい」と思う人たちの塊だからだ。
昨今、仕事観が崩壊しているとも語られるが、その根底にあるのは、「何のために、学ぶのか?」の本質的な価値の脱落なのだ。彼らはまるでドーナッツのように、知識だけを学び、学ぶことのど真ん中にあたる「学ぶ意義」を忘れてしまったのだ。冒頭の発言はこうやって生まれた。
では、仕事の本質的な価値とはどこにあるのか? それは、
作ること、だ。
面接で見るべきポイントは「作ること」が楽しいと思える人かどうか
今、私はベンチャー企業の役員として働いている。自分の事業部だけで、数十名のメンバーがいる。そのほとんどは自分で面接をし、「一緒に働きたい」と思った人たちだ。
採用の場で見るべきポイントを一つに絞るとしたら、私は「作ることが楽しいと思える人かどうか?」だと思っている。なぜなら、それは、「仕事の本質」に密着しているからだ。
冷静に考えてみると、すべての仕事は「作ること」から始まっている。車を作る、インフラを作る、コンテンツを作る。分業制の発達によって、経理財務や、広報など、コーポレートの仕事は増えた。だが、それらはすべて言ってしまえば「作ること」をサポートすることでしかないのだ。ドーナッツの真ん中にあるのは、間違いなく「作ること」なのだ。
私だけでなく、スタートアップで働く人は「楽しい」という人が多い。
それは、スタートアップでは新しいものを作っているからで、作ることは楽しいということを本能的に知っているからだ。だから仕事が忙しくても、楽しいと語るのだ。
一方で本質的な価値を見失ったサラリーマンは、「作ること=面倒くさいこと」だと思うのだ。そして周りを見渡しても、自分と同じような人間しかいない。だから、彼らは「仕事が楽しい人なんていない」と事実を見誤るわけだ。
超合理的な人間ほど、他人から見ると「非合理的なもの」にたどり着く
「作ること」は、一見すると、非合理的なことに見える。たくさん勉強していい大学を出た人からすると、「作る」という大変なことをしなくても、年収1000万円くらいなら手にできる。そんな彼らにとって、「作る」ことにフォーカスする人たちは「極めて非合理的」に見えるのだ。
だが、仕事を楽しむ人々は、全く違う次元で物事を見ている。彼らは金ではなく、仕事の本質を追い求めているのだ。彼らにとって、人生の50%近い時間をドーナッツのように真ん中が脱落した仕事に費やすことほど、無駄で非合理的なことはないのだ。イーロン・マスクはこう言った。
「世間はバカだと思うけど、実際には賢いことを考える。勝つのはここだ」
超合理的な人間ほど、他人から見ると「非合理的なもの」に辿り着くと言い換えられる。これこそ、一つの深遠なる真実なのだ。
仕事を楽しむ最大のコツは、「小さなうそと疎遠になること」
もう一つ、別の視点から「仕事を楽しむコツ」を考えてみたい。
サンプルは私だ。私は昔は仕事が嫌いでたまらなかったが、今は仕事が趣味のような人間だ。どれほどかというと、月に1、2回ぐらいは、金曜に「早く月曜日こないかなー」とナチュラルに思うことがあるぐらいだ。ちなみに、この話は個人のブログ(『金曜の夜に「早く月曜こないかな」と呟いたら、女の子にブチ切れされた話』)に書いた。シャンパンを手にした女の子の前で、ブチ切れられた話だ。
さて、話を戻し、なぜ私は今仕事が楽しいのかを考える。つまり、「仕事を楽しむ最大のコツは何か?」というと、これはこうなんだろう、と今になって思う。
小さなうそと疎遠になること
私たちが親友といて心から楽しめるのは、「小さなうそ」と疎遠だからだ。一方、仕事には小さなうそをつくチャンスが溢れている。本当はA案がいいと思っているけれど、上司が「B案がいい」と言うので、「B案」と答える。あるいは、本当はやりたい仕事があるのに遠慮してしまい、手を上げられない。これらは小さなうそだ。
だが、もしも、そこで勇気を持ち「私はこう思う」と提案したら、どうだろう。論破されるかもしれないが、そこにうそは存在しない。自分の気持ちに対して、うそをついていない。この積み重ねこそ、すべてだと思うのだ。
どうでもいいうそに騙されないでほしい
そして、小さなうそを積み重ねてきた人々は、大きなうそをつきはじめる。冒頭に出てきた「仕事を心から楽しんでいる人なんて、いない」といううそがその典型例だ。
これは完全なる事実の誤りだ。
少なくとも、彼にとって仕事は楽しいものではないかもしれないし、彼の周りに「仕事を心から楽しんでいる人がいない」のは本当かもしれない。だが、それは彼の周りにいる、お受験勉強で勝ってきただけの、くだらない大人たちがそうだというだけだ。すべての大人がそうだとはいえない。
事実は、単に「仕事を楽しんでいない人もいるし、そうじゃない人もいる」だけだ。
それなのに、「仕事を楽しんでいる人はいない」と誤りを犯した上に、こともあろうに純粋な学生を前にそんなことを言うやつがいたら、あなたはどう思うだろうか。
グーパンチをかましたい。
あなたはそう思わないだろうか?
北野唯我
取締役 北野唯我(KEN)
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※こちらは2017年10月に掲載された記事の再掲です。