「ある朝、目が覚めたら、あなたは『就活生』になっていました。どの会社へ入りたいですか?」
(※ただし、自身がこれまで所属した企業は選べません)
社会人の先輩に、「究極の転生質問」に答えてもらうシリーズ企画。今回は、写真で一言ボケるアプリ「bokete」のプロデューサーで起業家・投資家のイセオサムさんにご登場いただく。
<イセオサムさんの「入社以降年表」>
・2005年(22歳)
新卒で日本テレビへ入社し、「ズームイン!!SUPER」、「24時間テレビ」でAD、ディレクターとして映像制作に従事。
・2006年(23歳)
ネット広告代理店のオプトに転職し、モバイルを中心にインターネットビジネスの修行をする。
・2008年(25歳)
株式会社HALOを共同創業。取締役COOとしてモバイル広告代理事業を立ち上げ後、スマホアプリ事業を展開。boketeのアプリをプロデュース。
・2012年(29歳)
株式会社オモロキに取締役として参加し、boketeのグロース戦略を担当。
・2013年(30歳)
PLAY株式会社を創業。2015年(32歳)
株式会社狩猟社の取締役に。ViRATESのプロデューサーを務めた後、事業売却。
・2016年(33歳)
HALOからアプリ部門をスピンアウトし、Roadieを共同創業。
・2019年(36歳)
ハイブリッドサラリーマンズクラブ設立
・2021年(38歳)
SNSマーケティング企業、株式会社NAVICUSの社外取締役に就任
・現在
PLAY代表取締役として企業のデジタル活用アドバイザー。Roadie取締役としてboketeのアプリやYouTubeチャンネルを運営。オモロキ取締役としてboketeの事業戦略を立案。ハイブリッドサラリーマンズクラブ合同会社にて働き方改革を推進するオンラインサロンを運営。NAVICUS社外取締役として企業のSNS活用を支援。
イセさんのキャリアを見ると、大手企業に就職した後に、起業家となっているのが目を引く。一体、どんな新卒就活をしていたのか? また、今、イセさんが新卒就活生ならば、どんな決断をするだろうか? お話を伺う。
<目次>
●日テレをたった1年で辞めた理由
●インターネットでドラマをつくる
●ファーストキャリアの会社と10年後に働く
●イセさんが選ぶ3社
日テレをたった1年で辞めた理由
──イセさんは新卒で日本テレビに就職しています。もともとマスコミ志望だったんですか?
イセ:いえ、全然。もともと演劇を大学1年生から3年生までずっとやっていたんです。将来、映像をつくったり、役者をやったりするなど、何かしらクリエイティブな仕事に就けたらいいな、と思っていました。そうすると、いわゆる「就活」ではないじゃないですか? だから「どうしようもないな」「自分でやるしかないな」と思っていました。
大学3年生のときはゼミの同期と一緒に会社をやりました。そのときはガラケーのQ&Aサイトを作ったり、また、縁あって代官山にあるアイスクリーム屋さんの店舗経営・メニュー開発のコンサルティングをしたりしました。
──ビジネスには興味があったんですかね?
イセ:それも、全然ない。
2001年に大学に入って、大学3年生のときは2003年。当時はたぶんベンチャーブームが来始めていた頃だと思います。だから、「自分でいつか会社をやるかもな」とは思っていましたが、ビジネスについて知ろうとは思っていなかったです。
大学生になる以前から、「自分は組織に合わない人間なんだろう」という予感はずっとしていて。たとえば、私は満員電車がダメだったんですよ。中学・高校と満員電車で6年間通っていて、毎朝乗る気になれなくて。年間150回くらい遅刻をしていました。「これは、普通に会社に通勤するのは無理だろう」と考えていました。
だから、「電車に乗らなくてもいい仕事ってなんだろうな」っていう消極的な発想から、仕事についても考えるようになりました。中高生の頃は「釣り」がいいな、と思ったんです。でも、釣りでは食えないぞ、と思って。あと「バンド」もやっていたんですけれど、どうも才能がなさそうなことは分かって。そして、大学でちょっとずらして演劇に行く。役者はちょっとないなと思って、映像を作っていたんです。
大学時代、釣りにハマっていた頃のイセさん。ガラケーのため、画質が粗い
──消極的な発想というより、自分の特徴をよく分かった積極的な決断とも見えますね。
イセ:会社に通勤するサラリーマンになるのは難しそうだから、自分はいずれベンチャーを立ち上げるだろう、と思っていました。そうしたら、たまたま友だちが学生起業したので、ジョインしました。大学3年生のことです。
その時期にようやく「就活」というものを知りました。それまでは、本当に知らなかったんです。周りの人がなぜかスーツを着だして。「勉強会に行ってきた」と聞いて、「なに!?」って驚いて。
でも、私には受けたい会社がなかったんです。そんなとき、たまたま、日本テレビが募集しているらしいぞ、と耳にして「テレビ局って、就活で入れるんだ」と知って。私は演劇をやっていたから、ドラマを作りたかったんです。ドラマ制作だったら、会社に入ってもいい、と思って日テレの選考を受けました。
──これまでのお話を聞いていると、イセさんの発想にビジネスの要素がないですね。でも、友だちとはベンチャーを経営していた、と。
イセ:その会社は、全然儲(もう)からなかったんです(笑)。
私はサービスを作ることには興味がありました。最初は飲食店とか、大学のテスト情報のQ&Aサービスとかを作って。チラシを作って、大学中に配っていました。マイナーな科目だと、講義ノートがないじゃないですか? そのサイトに「誰かこの授業のノートないですか?」みたいに書き込むと、「持っているよ」と返信がある。そして、知らない人同士が出会うのが結構面白くて。サービスを作るのは面白いと思いました。
でも、どうお金にするかを全然考えていなくて。結果的に全然儲からなかったんです。
──クリエイティブへの関心しかなかったからこそ、ドラマが作れる日テレへ、と。
イセ:もちろん、もともとテレビを好きだったのは大きいのですが、「ドラマだったら、会社に入ってでも作りたいぞ」と思って。2005年に入社しました。
──会社に「入ってでも」というのが、すでにイセさんならではの特徴ですね。
イセ:面接のときも、とにかくドラマがやりたいです、という話をしていました。でも、学生でベンチャー企業を経営していたことは隠していました。自分のことを、あくまで「現場」の人間です、とアピールしなければいけない、と思って。私は現場でそのまま役に立つぞ、と思ってもらえるように。
「インターネットのやつだな」と思われたら、軸がブレると思って。演劇をずっとやっていました、という話で一貫させました。
──当時のテレビ業界からすると、インターネットの見え方って、今とだいぶ違いましたしね。
イセ:そうなんですよ。それに、ドラマだったら本当にやりたいと思っていたから。
でも、入社してみたら朝の情報番組に配属されて。「え!?」と思って。ドラマやりたい、って言ったじゃん! 自分で選べないの!? って。本当に混乱しました。私は情報番組を見たことがなかったし、周囲の友だちも見ていないし。ドラマをやりたくて、入社したのに。
──今は「配属ガチャ」なんて言葉が流布されていますが、当時のイセさんは面食らったでしょうね。
イセ:1年目で辞めるという話をしたときに、上司からは「インターネットが好きなら、別のデジタルの部署もあるよ」と言われて。でも、「デジタルだったら、日テレじゃなくてもいいと思います」なんて言っちゃって。
──ちょいと、とがっていますね。
イセ:当時の人事部長に「なんで辞めるんだ」と聞かれて。「映像を誰でも投稿できるような、デジタルのプラットフォームを作りたいんです」と言いました。当時は、まだYouTubeが出始めたくらいのときで。「おまえはふざけてんのか」みたいなことを言われた(笑)。
私の中では「ドラマを作るために入った」というのが明確で、そうじゃなかったら別に意味がない、だったんですよね。
新卒で日本テレビに入社した年の写真。同期の結婚式のVTR撮影をしている
──スパッと辞められるのがすごいですけれどね。私だったら「あと2年くらい我慢して、ドラマ部へ行けたらいいかな」みたいな選択をする気がします。
イセ:私はすごく焦っていたんだと思います。それに、2年たって行けないかもしれないじゃん? それはすごくイヤだな、と。
あと、もともと大学のゼミでは、ガラケーで映像を撮るなどといった研究をしていたんです。これからは誰もが動画を撮って、アップする時代になるだろう、というのを2003年からやっていました。だから、テレビ局じゃなくても動画は作れるぞ、と思っていました。ドラマもきっと作れるぞ、と。
だから、日テレを出て、インターネットの会社を作ればいいんじゃないか、と思いました。
──あくまで作りたい先行なんですね。でも、収入面で「食えていけるかな?」みたいな心配はなかったですか?
イセ:それは日テレがファーストキャリアだったのが良かったのだと思います。良い意味で、サラリーマンの限界を感じることができました。
当時のテレビ局は新卒でも結構もらえたんですよね。残業代なので自分が出している価値に見合っていないのですが、年収1000万円くらい。
──新卒1年目で1000万円ってすごい高給ですが、それによって限界を垣間見るというのは分かりますね。日本でも有数の企業に入ったからこそ見える景色ですよね。
イセ:もともと「一発当てたい」というのがあったんでしょうね。子どもの頃フェラーリに乗りたかったから。で、フェラーリを買うにはどうするか、と考えると、年収1000万円では無理でしょう。となると、もうサラリーマンという選択肢がない。
だから、アーティストになるか、会社をやるか、くらいしか思いつかなかった。ドラマをやるのにしても、どこかで独立して自分でやるしかない。そういう決断でした。今は欲しくないんですけれどね(笑)。
インターネットでドラマをつくる
──日テレは私も5年間いたので分かる部分もあるのですが、コンテンツ制作集団としての力はすごいですよね。あれだけ毎日映像を制作して、24時間放送して、落とさない。今のYouTubeで映像を配信している人こそ、その底力を理解できると思いますよね。イセさんが日テレを辞めるときは、当てがあったんですか。
イセ:なかったです。でも、インターネットで会社をやるしかない、とは思っていました。
当時、ライブドア事件の年だったんですよね。ホリエモン(堀江貴文さん)がちょうど逮捕されたタイミングでした。私は情報番組をやっているから、同じ報道の同僚がホリエモンを張っていました。でも、その作り方が「ホリエモンは悪者だ」という前提で。逮捕された瞬間は、報道フロアでワーッて歓声が上がったように見えました。私は「いや、違わない? あなたたちの主観が相当入っているよ」と思いました。
──あの頃、インターネットそのものが、メディアの敵って感じでしたもんね。当時のホリエモンについての報道は極端でしたよね。
イセ:本当におかしいな、と思って。
一方で、ホリエモンの当時の活躍を見たり、サイバーエージェントの藤田晋さんの『渋谷ではたらく社長の告白』(幻冬舎、2013)が出たタイミングで読んだりしていて。インターネットの世界で、メディアをゼロから作る方が面白いな、と思っていました。
──もともとイセさんが学生時代にゼミでやっていた世界に近づきましたね。一度インターネット以前の業界に入って、「やっぱり自分はインターネットだ」と思い直したという感じですね。日テレを辞めたあとはどんなキャリアを歩まれましたか?
イセ:まず2年半修業をしています。オプトという広告代理店へ入りました。たまたま先輩がそこにいて、ちょうど業績が伸びていました。
自分で会社をつくるとしたら、ビジネス面も学ばないとできないな、と思って。お金をちゃんと集めるところと、作るところと両方必要ですから。
3年以内に修業をして、ビジネスを身につけて、起業しよう、と思いました。
──2社目にオプトを選んだ理由は?
イセ:本音をいうと、どこでも良かったです。すぐに入れるところで、ベンチャーならば。オプトは、面接で知り合った役員と話が合いました。でも、オプトしか受けていないんですが。
オプトの役員に、「3年以内に起業して辞めてしまいますがいいですか?」と言ったら、「いいよ」って言われました。
逆に「ギャラは日テレの半分になるけどいい?」って聞かれて「いいですよ」と答えました。どうせ3年しかいないし、と思って。それくらい生き急いでいたんですね。
──面接の場で、ちゃんと本音を言っているのが気持ちいいですね。オプトではどういう仕事をしたんですか?
イセ:もともとモバイルを研究していた人間なので、モバイルの部署にいかせてもらいました。当時はガラケーの広告代理店に近いかな。「はてなダイアリー」のバナー広告を売る、など。そういうメディアのプランニングをしたり、営業回りもやって、新規事業のプランを出したり。インターネットのビジネスや営業を学んで、お金の出入りを覚えました。
その3年はとにかく数字ばかりを見過ぎて、「すごく自分はつまんなくなったな」とも思いました。よくいる若手のスーパーロジカル人間みたいな感じで。
──でも、数字にまつわる感覚の強さは、プロデューサーには欠かせないですよね。
イセ:コンテンツ系でも営業出身者が作品を当てているケースは多いですよね。クライアントについてなど、いろんなことが分かっていると、クリエイティブにそのまま活きる、というのはありますよね。
──オプトで2年半勤めて、満を持して起業?
イセ:いえ、あまり満を持せなかったです(笑)。
でも、「3年で起業する」って会社のカレンダーに入れちゃっていた。「絶対に辞める」と周囲に宣言していたので。
──とても劇的ですね。
イセ:3年たつ頃には、事業プランもいろいろ考えていたんだけれど、結局「これだ!」っていうのがありませんでした。
オプトのモバイル部署にいたマネージャー3人でそのまま独立したのですが、結局最初は、それまでやっていたモバイルの代理店の仕事で食いつないでいました。そうして、合間に、アプリを作っていました。
起業した2008年は、ちょうどiPhone 3Gが出た年でした。「スマホが来たぞ!」と、スマホに特化して開発を進めようと思ったんですが、当初は全然出荷台数が足りなくてビジネスにならない。しょうがないから、モバイルの広告代理店で2年くらい食いつないで、ようやくiPhoneの出荷台数が増えてきた頃に、アプリが当たりました。
──あの頃、スマホはダイナミックな波がありましたよね。各社がスマホに対応できるかどうかが問われたけれど、その波に乗れるかどうかで、明暗が分かれました。
イセ:タイミングが大事だな、と思いましたね。iPhoneがあのスピードで伸びていて、それまでに準備できていたからこそ、私たちは当たったので。波が来るタイミングでいきなり参入しても遅いので。
あの波は、新参者が一気にスターになれるチャンスでしたよね。ガラケーからスマホへの移行によって、エンタメの枠が空きました。だから、さまざまなアプリを20〜30種制作して公開しました。たとえば、ガラケーにはあった顔文字がスマホにはなかったので、そういうアプリも作った。出したらすぐに100万ダウンロードいく、という感じでした。一番当たったのが、日テレの同期がつくった写真で一言ボケるboketeをアプリ化したものです。
boketeのサービス画面
ただ、相変わらず、ビジネス感度は低くて。アプリを出して、当てて、わーいって感じで。今思うと、経営がちゃんとできていなかったです。
当たったら利益は出るけれど、当たらないときは大きくダウンする。積み上がるモデルの必要性を感じましたよね。やっぱり、プラットフォームにしないと積み上がらないんですよね。
ビジネスと作ることを両立しないと続かないんだな、と肌で分かってきました。
──アプリが大々的にヒットしつつも、イセさんにはドラマをつくりたいという気持ちもありますよね。
イセ:HALOという会社でアプリをリリースしながら、もう一つ、狩猟社という会社に2012年にジョインしました。狩猟社では、VC(ベンチャーキャピタル)からお金を調達するということを初めてやってみたんです。
1年目はバイラルメディアというバズるメディアをやっていて、そこそこ大きくなりました。2012年や2013年はもうYouTubeの人気が上がっていたので、動画メディアをやることにしました。動画スタジオを今こそつくる、テレビ局を辞めて初めてコンテンツスタジオをやるぞ、と。並々ならぬ気持ちが入っていました。
当時は3,500万円調達して、1年で全部溶かしました。動画はやっぱりお金がかかるんです。テレビクリエイターを起用したんだけれど、見事に溶かしてしまいました。しょうがないから、そのメディアを売却して、もう一回キャッシュを得て、2年目にバイクのフリマ事業という全く関係ないことをやりました、ダメで。2年で役員を辞任することになります。
今にして思えば、あと3年くらい走れる経営状態をつくって、やる事業だったと思います。本当は低予算で3年間コツコツ走り続ける体制でいくべきだったんだけれど、私のクセで、すごいものを作りたくなってしまう。一発で100万再生が出るぞ、みたいな。
クリエイティブと経営の両立ができなかったんです。
──それって難しいし、永遠のテーマですよね。
イセ:100本くらい動画をつくった結果、100万再生を超える作品も生み出せたのは嬉しかったです。
Yahoo!のスポンサードでファミリーもののドラマもつくりました。20分くらいの尺で。ちなみに、その作品の監督・脚本をやった友人がつい先日、カンヌ国際映画祭で賞を受賞しました。大江崇允さんという方です。映画『寝ても覚めても』の濱口竜介監督が、村上春樹原作の『ドライブ・マイ・カー』(文藝春秋、2016)を映像化したもので、大江さんが濱口監督と共同脚本を担当しています。
──今思うと、たしかに、もう2〜3年続いていれば、また違った景色がありましたよね。ますますYouTubeが活況になりましたから。
イセ:そのとき狙っていたのは、ひとりYouTuber時代が終わって、チームでつくりだす時代が絶対に来ることでした。テレビの歴史の流れを見ると、そうなることは想像できていました。そして、そうなったときに、うちらはすごいコンテンツスタジオになるんだ、と思っていた。でも、2〜3年早かったし、そこまで待てずにキャッシュが尽きました。
ちゃんとビジネスとして儲かるタイミングに良いコンテンツを入れるって、相当我慢しないとできないことなんですよね。作り手としては、どうしても、ちょっと早いほうが面白くなってしまうし。そのバランスが難しい。
あと、キャッシュを調達する能力をつけるべきだ、と思った。もう一回、ビジネスをまた学ぶ必要を感じました。
ファーストキャリアの会社と10年後に働く
──狩猟社の役員を辞任したのが2017年です。その後はどんな展開を?
イセ:辞めてからは1年くらいフラフラしていました。お金を調達してやるのはすごく大変なんだ、と落ち込みました。もう次はサービスを当てられないかもしれない、才能がない、とも思ったし。
その頃、もう一回サラリーマンになろう、と思いました。もう一度ゼロからビジネスの修業をしたほうがいいな、と思って。当時一番伸びていたスタートアップにお声がけいただいていたんです。
──当時って上場前ですよね。
イセ:内定をいただいて、行くつもりでした。
でも、4月1日入社予定の3月30日。京都から西日本を旅していたら、「毎日会社行けないな」と思ってしまって。社長以下皆さんに、「本当に申し訳ないんだけれど、毎日行ける自信がないので……」と内定辞退の連絡をしました。そしたら、みんな「そうだよね、またなんかやろう」って言ってくれましたけれど。
大人でも、内定辞退を、直前でする(苦笑)。本当に迷っているなら辞めておけ、と私は思います。後から辞めちゃうと、迷惑がかかるから。でも、本当にごめんなさい。
──社会人の内定辞退話って初めて聞きました。誰かの勇気になりますね。あと、入ってから辞めるだと、双方にコストがかかりますからね。
イセ:私の場合、一回、1年で辞めちゃっていますからね。10年後にもう一度それをやるわけにはいかない。
──イセさんがサラリーマンをやっているのって想像つかないですけれどね。
イセ:もちろん起業家がサラリーマンになるケースもあります。M&Aの場合はそうなるし。その可能性はいつも思っていますよね。俺もいつか就職するかもしれない、といろんな会社を見ている。
あと、やっぱり、また学びたいなという思いもある。スーパープロデューサーのもとで働きたい、とかね。たとえば、昔、ドワンゴの会長だった川上量生さんが、スタジオジブリの鈴木敏夫さんに弟子入りしましたよね。そうやって何歳になっても弟子入りできる、リセットできる、というのは新卒のときから知っておいてもいいですね。
──内定辞退をしたイセさんは、その後も一貫して、ものをつくっていますよね。サービスをつくったり、作品をつくったり。
イセ:何かはやっていますね。自分でやろうとしているわけではないんだけれど、なんか呼ばれたりして。その期間は、中学生のときに仕事にするのを諦めた釣りで食べていけるかをもう一度試したくて、釣りYouTuberをやったりしていました。自分で企画、出演、編集から全部やって。ただ、全然ダメで1年で引退しましたね。
その後は、前述のRoadieでYouTubeのマンガ動画チャンネルをつくって当たりました。代表がやりたい、というのに元YouTuberとして乗った形ですが、今はチャンネル登録数が15万人まできました。
そのチャンネルでは今度1時間尺の長篇(へん)三部作をつくろうとしています。でも、絶対赤字になると思います。YouTubeでかけてはいけない予算のかけ方をしているので。
つい当たると、よくないクセが出ているのかもしれない(笑)。
──boketeもずっと続いているんですよね。
イセ:boketeはここから10年面白くなると思います。もともと2008年に、日テレの同期だった友人が立ち上げて、最初それぞれ会社をやっていたんです。2011年からパートナーを組んでして、アプリをつくりました。アプリは来年がちょうど10周年です。
「次の10年でルーヴル美術館に入る作品を生み出す」というのを目標に定めました。ボケをアートに変えていくのが、次の10年。boketeはインターネットから出たミーム的なエンターテインメントですが、次の10年、もしかしたらもっとかかるかもしれませんが、俳句のようなアートになると思います。
──あとは、ファーストキャリアの日本テレビと現在仕事をされていますよね。
イセ:日テレのSNS活用まわりを見ています。仕事のきっかけは、お世話になった日テレの方から「Twitterに詳しい?」と連絡がきて。まあ詳しいかな、と思って社内向けに勉強会をやりました。そこから、具体的にこの番組とこの番組のSNS戦略をやらないか、と誘われて、パートナーの株式会社NAVICUSと一緒に担当するようになりました。それがご縁で社外取締役を務めることになるなど、点ってつながるものですね。
日テレで社内勉強会をやると、100人くらいの参加者の中に、昔の上司もいました。10年ちょっと前に辞めたイセですと挨拶(あいさつ)すると、ああ、あのすぐ辞めたやつか、と驚かれます。
いい話にするならば、ファーストキャリアで残した実績とか人間関係とかが、10年たっても一緒に仕事をすることにつながる、となりますが、私の場合、ズバッと辞めて迷惑しかかけていません。
──古巣と仕事をするって「古巣に足りない人材であること」が必要じゃないですか。つまり、今の日本テレビにいない人材にイセさんがなっていた、ということなんだろうな、と私は受け取りました。
イセ:日テレからすると、最初採用して、野放しにした結果、いろいろ能力を身につけて良くなった、みたいな面もあるかもしれません。サッカーで最近多いレンタル移籍みたいな感じ。レアル・マドリード方式で、いいやつだけガッツリ採用して、レンタル移籍に出しまくる、と。そして最後トップチームに戻す、みたいな人事のやり方はあるかもしれませんね。
──そもそも新卒で選ばれるくらいカルチャーマッチはしているわけですものね。
イセ:カルチャーはテレビ局によって全然違いますもんね。自分の場合は、やっぱり日テレがどこか合うんだろうな、と10年ぶりにご一緒して思いました。尊敬する先輩もたくさんいますし。やっぱり、ファーストキャリアって、自分にとって特別な会社なんでしょうね。
イセさんが選ぶ3社
──1社目は?
イセ:Notionを挙げました。
意図としては、初期のInstagramのように、10人程度の少人数で1億人を相手にするようなスタートアップにメンバーとして加わったら面白そう、ということです。グローバルで戦えるポテンシャルがあって、少人数でやっているところに、新卒で自分をねじこみたい。もちろん、スキルがないといけません。スーパーエンジニアになるか、デザイナーになるか、ですね。たまたま日本の京都にきてつくったというNotionはすごく好きです。今でも少人数だと思います。
アメリカでドーンと流行(はや)っていっているサービスは、必ず日本に来るから、そこの支社長になる、という手もありますよね。
──でも新卒ですよ?
イセ:いや、できる人はできるでしょう。Facebookのマーク・ザッカーバーグも学生上がりだし。
今のトップクラスの学生エンジニアって十分に戦えると思うし。
──そういう会社をどうやって見つけるんでしょうか。
イセ:インターネットが好きだったら、世界中のサービスを見ているはずですよね。そしたら、その中に、入りたい会社が出てくるはずだし、そのくらい見ておけ、と私は思います。もちろん、私の学生のときにはそんなことは分からなかったけれど(笑)。
海外で流行っていて、日本に持ってきたら絶対いいものってあるはずだから。日本の立ち上げやるよ、って言って入ったら楽しそうです。
20代ってまだ無茶(むちゃ)がきくじゃないですか? だから、できなさそうなことをやったほうがいいんじゃないか、と思います。もちろん日本支社をやれって言われたら難しいんだけれど、やったらできるかもしれない。そういうことにトライしたらいいんじゃないか、って。
──自分で枠をはめず、ということですね。
イセ:支社長といいつつ最初は自分だけ、ですしね。マネジメントはいらない。
──2社目は?
イセ:伊那食品工業です。「かんてんぱぱ」をつくっている長野県の企業です。『日本でいちばん大切にしたい会社』(あさ出版、2008)っていう本が好きなんですが、「会社の真の目的は利益でも成長でもなく、会社を取り巻く全ての人々がハッピーになる事です」というメッセージが素敵(すてき)で、体験してみたいなって。
新卒就活って東京の会社に集中しやすいですよね。地方でいい会社っていっぱいあるはずで、それを見たほうがいい、というメッセージです。私が今新卒だったら、逆張りで地方に行くかもしれません。
昨年から長野県の御代田町に移住したから思うのですが、それまで自分は東京の会社しか知らなかったんです。新卒入社から、東京を出て移住するまで。全然違う場所を見る手もある、ということを知ってもらいたいな、と思って挙げました。
──3社目は?
イセ:メルカリを挙げました。日本から、グローバルで事業を展開するための組織や文化の作り方を中から学べそうですよね。もし、今僕が就活生だったらグローバルで活躍できる人材になれるか、という視点は会社選びにおいて持ちたいです。あと、思いっきり働いてスキルと仲間を得たいと思って。最初の3年から10年はラクな環境を求めるより、厳しい環境にいって勝負をかけたほうがあとからレバレッジが効くでしょう。逆に、30代を超えてからのギアチェンジは難易度が上がります。
あと、WEBサービスをつくるにあたっては、若さが強みになることも多いと思います。今の20代の方は、デジタルネイティブだけあって本当にプロダクトづくりのセンスがいい。また、InstagramやYouTubeで、数字を分析して改善を繰り返すことも遊びとしてやってきた方が多いです。ここは、仕事で始めた先輩たちとの大きな差になるので、いきなり活躍できる可能性はあると思いますよ。若さが活きる場所、産業を選ぶというのも一つの手なんじゃないかなと。
──最後に就活生へメッセージがあれば。
イセ:会社というコミュニティにせっかく入るんだから、面白い人がいる会社が一番いいですよね。
あと、選べるんだったらいい上司がいるところ。2社目のオプトにいたときは、博報堂から転職してきた上司がいて、その方によって鍛えられました。会社の規模が大きくなればなるほど配属ガチャや上司ガチャが発生することが多いので、自分で選べることを僕は重視します。
企業の中に、どんな人がいるか、というのを可視化できると、本当はいいですよね。そういうサービスがあればいいのになあ。
──本日はありがとうございました。
イセ オサム:1983年東京都出身、2003年慶應義塾大学在学時に友人と有限会社NSSを起業。モバイルメールQ&Aサービス「クチコミネット」をリリース。2005年に日本テレビに入社し、「ズームイン!!SUPER」、「24時間テレビ」でAD、ディレクターとして映像制作に従事。2006年にネット広告代理店の株式会社オプトに転職し、モバイル広告代理事業に従事。2008年株式会社HALOを共同創業。取締役COOとしてモバイル広告代理事業を立ち上げ後、スマホアプリ事業を展開。海外からのアプリローカライズや、boketeなどのアプリをプロデュースし、累計1,000万DLを突破。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門受賞。
現在はPLAY代表取締役として企業のデジタル活用アドバイザー。Roadie取締役としてboketeのアプリやYouTubeチャンネルを運営。オモロキ取締役としてboketeの事業戦略。ハイブリッドサラリーマンズクラブ合同会社にて働き方改革を推進するオンラインサロンを運営。SNSマーケティングで企業を支援する株式会社NAVICUS社外取締役。2020年に長野県の御代田町に移住。
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