総合商社の志望理由として、「経営を学びたい」と答える学生は少なくないでしょう。
ワンキャリアでも「若手から経営を学べるか」というテーマで総合商社に何度も取材を行ってきました。しかし、本当に学べたかどうかは、商社を卒業して会社の経営に携わった人にしか分からないはず。
今回お話を伺ったのは、製造業向けの異常検知AI(人工知能)を開発するスタートアップ、アダコテックで最高経営責任者(CEO)を務める河邑亮太さん。彼が三井物産に入ったのは、経営を学ぶため。しかし、「子会社社長になれる40歳過ぎまでチャンスを待つのはリスクだ」と7年目で会社を去る決断をします。
チリの子会社での最高財務責任者(CFO)経験や100億円規模のM&Aなど、三井物産の7年間を振り返る中で、河邑さんが総合商社でどう経営を学び、会社を使い倒したかを探ります。
河邑 亮太(かわむら りょうた)(@ryotakawamura9):株式会社アダコテック 代表取締役CEO
一橋大学法学部を卒業後、2011年4月に三井物産へ入社。在職7年間で、南米の自動車ビジネスを担当し、主に在チリ子会社の経営およびクロスボーダーM&A案件に従事。チリへの駐在も3年間経験する。2018年4月に合同会社DMM.comへ転職し、経営企画室にて新規事業立案や子会社のPMI/経営支援を遂行。2019年7月よりアダコテックに執行役員として参画。2019年9月より取締役、2020年4月より現職。
配属希望は当時不人気の自動車部門、その理由は「最も早く海外に行けるから」
──河邑さんが商社を目指したのは「経営を学びたい」という思いがあったからだと伺いました。どんなきっかけだったのでしょう。
河邑:私は大学時代、ラクロス部のキャプテンをしていました。目標に向かって全員の意思を同じ方向に統一させながら、100人を超える組織を束ね、結果を出すのがすごく楽しくて。部活をビジネスに置き換えて考えたとき、まるで経営だなと思ったんです。そこから経営者という道を意識し始めました。
──確かにキャプテンってチームという組織をまとめるのも一つの仕事ですよね。当時の志望業界も経営というポイントで決めたんですか?
河邑:はい。戦略コンサルか商社のどちらかだと考えました。戦略コンサルなら、戦略的思考や経営のいろはなど、若いうちから経営の型が学べます。一方で総合商社なら、早い段階から現場に出ることで、比較的若い年次でも経営に携われると思いました。僕は机の上よりも実践から学ぶことの方が多いので、総合商社を選びました。
三井物産に決めたのは「人の良さ」が理由です。ラクロス部で活躍していた先輩が多かったというのもありましたが(笑)。
──総合商社の場合、どの部署で働くかも一つのポイントになりますよね。学生たちも「配属ガチャ」という言葉を使うくらいです。三井物産は比較的希望が通りやすいと聞いていますが、どうでしたか?
河邑:そうですね、僕は第一希望で自動車部門を出して通りました。当時は人気がなかったから通りやすかったというのもあったと思います。希望者が僕ともう一人しかいなかったらしいですし。今はまた人気になってきていると聞いています。
──不人気だったという自動車部門を希望したのはなぜですか。
河邑:僕が意識したのは「海外子会社など含め、マネジメントポストが多いかどうか」です。ポストが多いほど、海外駐在など含め、若手に早くチャンスが回ってきます。自動車部門はマジョリティ出資(50%以上の出資)をしている関係会社が多く、総合職の約40%が海外で働いていました。一方で、エネルギーや金属資源など10年以上かけて事業を進めるビジネスだとポストがそこまでないんですよ。経営を学ぶための最短距離を考えた結果です。
スペイン語も金融も分からない僕が、いきなりチリ子会社のCFOに?
──入社後、希望していた通り、早い段階で海外に行けたんですか?
河邑:2年目の終わりに「来月から、チリの子会社で3年間CFOとして働いてほしい」と辞令を言い渡されました。ただ、当時は公用語であるスペイン語は話せませんでしたし、会計で持っている資格といったら簿記3級だけ。このときばかりはヤバいと思いました。
──話を聞く限りだと、普通にムチャ振りですねそれ……。
河邑:ポジティブに捉えていました、なんて器の大きい会社なのかと。子会社には約160人の社員がいたのですが、英語を話せるのはCEOを務める上司だけでしたから、もう語学も知識も、キャッチアップするしかありませんでした。スペイン語は現地の語学学校に通って、半年でビジネスに対応できるレベルまでマスターしましたし、働きながら米国公認会計士の資格も取得し、業務が行えるところまで会計スキルも高めました。
CFOとして働き始めてからは、毎日チリの新聞を3誌読み、気になる記事はスクラップして為替・銅価・金利の情報を書き込んでいたという
──2年目の終わりだと25歳ぐらいですよね。商社でも5年目など、30歳手前で海外駐在に行く方が多い印象でした。
河邑:同世代の中では一番早かったです。部門として海外勤務の比率が高いのはもちろん、部署としても、3年目ぐらいからは優秀な先輩方は既に海外へ行っていました。
──まさに当初の狙い通りですね。チリの子会社ではどのような仕事を担当されたんですか?
河邑:自動車ローンを扱う会社のナンバー2として、主にCFOロールをこなしていました。とはいえ、財務や経理といった業務だけでなく、内部統制強化やオペレーションの改善、システム投資やM&Aまで、業務は多岐にわたりました。社員から相談が絶えず来るので、経営課題を抱えるチームに入っては、問題を解決する日々でした。
日本では下っ端だった僕が、いきなり40歳ぐらいの部下をたくさん持つことになりました。社員のマネジメントや採用、解雇通知や訴訟対応もやりましたね。それこそ、朝に裁判所で会社の代表としてスペイン語で証言してから出社する、なんてこともありました。
──CFOってそんなことまでするんですか!?
河邑:しない場合もあるかと思いますが、そんなことも言っていられないくらい大変な状況でした。駐在してから1年もたたない間に、経済状況が悪化して会社の業績が一気に落ち込んだり、幹部が2人突然辞めたりと、とにかく試練続きでした。この時期は、会社を立て直すために午前2時まで働いて、6時に起きるみたいな生活でした。今振り返れば、日本では絶対にできない経験だったと思います。
地獄の3年間で学んだ「経営視点」 会社に求められる役割と期待をマクロに捉える
──ピンチの連続ですね……。結局、その後会社はどうなったのでしょう。河邑:そこから約2年で業績を戻し、3年目には過去最高益を達成しました。
ただ、道のりは極めて地道なものでした。例えば、ローン回収の電話対応一つとっても、スタッフと一緒にマニュアルを見直したり、電話が途切れないように自動で架電をする仕組みを整えたり、社員のやる気が出るようにインセンティブを設計したり。一つひとつの現場に入り込んで、オペレーション改善のPDCAを回し続けました。
──社長との役割分担はどのようにされていたのですか?
河邑:僕の方が社長よりも子会社の経験が長く、オペレーションの詳細まで把握していたので、現場に入った改善は私が担いました。社長には対外的な役割を果たしてもらい、中のことは全面的に任せてもらっていました。
チリに駐在していたときの写真。河邑さんは左下
──こうした経験を通じてキャリアについての考え方は変わりましたか?
河邑:そうですね、一つは経営者として生きていきたいという思いが確信に変わりました。毎日かなり大変だったのですが、それ以上に楽しかったんですね。一方で、三井物産でのキャリアを続けていくことに疑問を感じるようにもなりました。子会社の社長ポジションについて「僕はあと15年待たないと、そのポストには行けない。それだとあまりにも遅いな」と思った記憶はあります。
──海外で勤務される方は、皆さんここまで厳しい体験をしているんですか?
河邑:さまざまな現場があると思いますが、僕の場合はチリの中小企業ならではの環境だったと思います。もう少し大きい会社や現地法人であれば環境は異なっていたなと。あと、三井物産が100%保有する会社であったこともポイントでした。マイノリティ出資の会社だと、なかなか若い年次で経営ポストを任せていただけることはありませんから。
──経営を学ぶという視点において、チリ駐在の3年間で一番の学びは何でしょう。
河邑:経営者として多くを教わりましたが、中でも「会社に求められる役割や期待をマクロに捉える力」は、相当身に付きました。
駐在するまでは、経営者は会社のP/Lを伸ばせば良いと考えていたのですが、甘かったです。「この会社が何のために存在するのか?」を株主の視点、顧客の視点、従業員の視点など、さまざまな視点で考えることが求められました。駐在当初は全くこうした議論にはついていけませんでしたが、事業計画を何度も作り、取締役会での議論や、資金調達を担当する中で、駐在が終わるころには少しずつ考えられるようになりました。
──逆に経営に対するイメージと、ギャップを感じる場面はありませんでしたか?
河邑:体育会のキャプテンをやっているときは、勝利を目指すことが全員にとって疑いのない目的でした。一方、会社になると、生活のためやキャリアアップのためなど、社員それぞれ仕事をする目的がある。前提がそろっていない中で同じミッションを共有する必要があるという点に、学生時代とのギャップがあり、経営の難しさや奥深さを感じました。
大変なことも多かったですが、日本にいるより100万倍楽しかったです。自動車分野の場合、日本でやることは投資先の管理業務がほとんどですから。その中で中小企業の経営をやらせてもらえたのは、会社には感謝しています。自分で決めたことに対し、成功しても失敗しても責任を負うことに納得感がありました。
帰国後に充実のM&A案件、それでも三井物産を辞めた理由とは?
──その後、河邑さんは2017年に帰国したんですよね。それからの仕事はどうでしたか?
河邑:最初はぶっちゃけ暇でした(笑)。毎日17時には帰っていましたし、駐在していた会社の投資管理業務だったので、成長を感じられなかったです。ただ、次に担当したチリのレンタカー大手を買収する案件(M&A)は、やりがいがありました。M&Aの実務をひととおり行ったんですが、それがめちゃくちゃ面白くて。会社の企業価値評価ってこんなふうに決まるんだ、と。
──具体的にどういう点を見ているんですか。
河邑:事業計画などから得られる数値だけでなく、これまでの契約実績や在籍する経営人材、IT資産の内容、内部統制、企業リスクなどの定性情報も含めて総合的に評価されます。この業務を通し、これまで知らなかったさまざまな要素を知ることができました。
──なるほど、これまでとは違う視点から経営を見られたわけですね。交渉なども河邑さんが行ったんですか?
河邑:はい、僕がフロントを担いました。200項目近い条件を見ながら、自社メリットを考えて毎晩一つずつ相手と交渉していました。自分の一声で億単位のお金が動くこともあり、これまで経験したことのないプレッシャーも味わいました。
交渉テーブルでは折れない相手に泣き真似をして「M&Aが成功したら僕はこの会社に行きますが、あなたたちは行かない。だから折れてくれ」とよく分からないロジックで条件を勝ち取ったこともあります(笑)。あの手この手で相手にメリットを提示しつつ、譲れない一線は死守するという駆け引きのスキルは今でも役に立っています。
──このM&Aが成功したら、河邑さんはその会社へ派遣される予定だったんですか?
河邑:おそらくそうでした。当時の上司と交渉して、通常なら課長クラスしか行けない1,000人規模の企業でナンバー3のポストに赴任する話をしていました。ただ、その会社へ僕が派遣されることはありませんでした。このタイミングで三井物産を辞めたんです。
──えっ、それだけ楽しく働かれていたのに……。
河邑:M&Aは自分には合わないなと思ったんですよ。現場で日々頑張っている人たちの価値を、紙の上だけで決めてしまうことや、僕自身が何も価値を生み出していないのに億単位のお金が動く環境に魅力を感じなくて。また、今回の派遣先もチリで期間は5年間。このままでは「自動車×チリ」というニッチな人材になってしまうと思いました。
そして、何より僕は経営が好きだと改めて自覚したんです。チリ子会社でCFOを務めたとき、次はCEOをやりたいと考えていました。でも、三井物産の子会社でトップになれるのは40歳過ぎ。当時20代後半だったので、あと10年は待たないといけません。ここから、転職に向けた準備を本格的に始めました。
──どのような準備をされたんですか?
河邑:1年かけて、コンサルやPEファンド、外資系投資銀行、プロ経営者にベンチャー経営者など、あらゆる業界の人に話を聞きに行きました。その中で特に印象的だったのがエグゼクティブサーチファームのヘッドハンターに聞いた話です。
ヘッドハンターに社長としてスカウトする人の条件を聞いたところ、「社長として結果を出したことのある人」と言われたんです。ナンバー1とナンバー2の間には決定的な差があることを感じていたので、経営に携わるなら「早い段階でトップの世界に入らなくては」と思いました。
元三菱商事の新浪剛史氏をロールモデルに、自身が目指すキャリアの構想をまとめて相談していたという
──その後、2018年にDMMへ転職されましたよね。なぜ、畑の違うIT企業だったのでしょう。
河邑:目指す経営者像からの逆算で考えました。世の中に変化を起こしている企業を思い浮かべたとき、パッと出てくるのが「GAFA」でした。全てテクノロジー企業ですよね。僕は5年後、10年後の経営者にとってテクノロジーはスキルではなく、教養になると考えています。
だから、テクノロジーが分からなくても仕事ができてしまう商社の働き方に、危機感と焦りを覚えていたんです。それで、転職するならまずIT業界にしようと決めていました。
──ご自身が期待していた成果は、DMMで得られましたか?
河邑:はい、在籍したのは1年あまりでしたが、社内の新規事業の立ち上げや買収したベンチャーの経営支援としてCOO的なポジションで参画し、いろいろなことに携わることができました。エンジニアと接する中で、ソフトウエアもテクノロジーも要点を把握できていれば、事業は進められるという自信も得られました。
商社で得たキャッチアップ力と胆力があれば、どの業界でも生きていける
──そして、2019年にアダコテックの4人目の社員として入社されたわけですね。
河邑:自分は経営者になりたいという思いが強かったので、それが実現できる企業であったこと、そして何より、良い技術と製造業というテクノロジーによるアップデートの余地があるマーケットを持つこの領域で勝負したいと思いました。
──経営に興味を持って、経営者になる。河邑さんのお話を聞いていると、迷いなくその道を進んできた印象があります。
河邑:確かにどういう人を目指すかは常に考えていました。ロールモデルの一人は、転職活動時にも登場した元三菱商事の新浪剛史さんです。ローソンの社長兼CEOを経て、現在はサントリーホールディングスの代表取締役社長を務めています。商社から転じてプロ経営者になられた方ですね。CEOになった今は、経営者として自身がどう成長していくかを日々考えています。
──社長として働く中で、商社の経験が生きたと思う瞬間はありますか?
河邑:「キャッチアップ力」と「胆力」ですかね。商社では3年ごとに仕事が変わるため、そのたびに短期間で事業の肝をつかみ、人間関係も含めてキャッチアップしてきました。スタートアップのCEOはChief Everything Officerと言われるくらい驚くほどいろいろなことをやらないといけないので、その都度のキャッチアップ力は今に生きています。また、何が起きても動じず、自分を保ちながら経営を行う胆力は、チリで身に付きました。
キャリアを戦略的に築くのが難しい総合商社、だからこそ初期配属面談は死ぬ気でやれ
──最近は新型コロナウイルスの影響もあり、人気の就職先が変わってきています。河邑さんが今、もし就活をするならどの会社を目指しますか?
河邑:今、僕が新卒で目指すならGoogleかな。良くも悪くも新卒で入る会社が、自分にとっての今後のスタンダードになるので、グローバル×テクノロジーの最高峰企業をスタンダードにしたいと思います。エンジニアと自然と一緒に働く環境になるのも魅力ですね。新卒ベンチャーはインターンなどを通じてよっぽどマッチしていることが確認できているならば良いと思いますが、そうでない場合はなかなか不確実性の高い選択肢ですね。
もちろん、総合商社もビジネススキルを学ぶには良い場所ですが、海外に行きたいと思っているなら、気を付けた方が良い点もあります。今は新型コロナウイルスの影響で、海外へ行くはずだった人、留学する予定だった人が日本で順番待ちをしていると聞きます。通常なら行けるタイミングでも待たされることになりかねません。
──やはり海外って、若手のうちから行く方が良いのでしょうか。
河邑:本店が主役の部署と脇役の部署に分かれるので、正直部署次第ですね。どこにメインの取引先やエースプレイヤーが集まっているかで決まります。本店で案件を作ることがメインなら、東京にいても当然成長できると思いますし。
──河邑さんから見て、他に総合商社を選ぶ際の注意点があれば教えてください。
河邑:総合商社に限った話ではありませんが、不確実性という観点から「人事リスク」を常に取り続ける状況になると思います。人事は水モノです。その中で自分が希望する通りにキャリアを進めることは難しいでしょう。どれだけその事業をやりたいという熱意があっても、タイミングが合わないと意味はありません。
私自身も三井物産でMBA留学を希望して、ハーバードに留学できるようなテストスコアをそろえたものの、「先輩を先に行かせてほしい」と言われて叶(かな)わなかったという経験があります。これが自分のキャリアを本格的に考えるきっかけになりました。
──なるほど。こういう形で年功序列が出てしまうと厳しいですね……。
河邑:僕はこの人事リスクに対し、リターンが見合わないと思ったんです。もし順調に昇進しても、本部長や部長の業務は、経営というよりもポートフォリオマネージャー、つまり投資家みたいな仕事です。
「商社を経営したいか?」を考えたとき、自分がやりたいことではないと思いました。確かに総合商社は良い会社で好待遇ですが、人事リスクなど、しっかりとデメリットも認識した上で選択してほしいと思います。
──「キャリアを自分で選べない」という話もありましたが、あらがう方法はあるのでしょうか。学生へのアドバイスをいただけませんか?
河邑:僕自身、商社志望の学生からOB・OG訪問をされることが多いですし、「三井物産に行きたい」という学生は基本的に背中を押すようにしています。ですが、意外と配属面談を甘く考えている方も多いことが気になっています。
「どの部署でもいい」わけがないんです。それこそ僕は自動車じゃなかったら、今ここにはいないでしょう。他のイベントに比べて、初期配属はまだコントロールしやすい要素です。最初の配属が商社人生を決めると思って、気合を入れて臨んでほしいです。
そのためにもキャリアを点ではなく、線で考えることが大切です。今は転職も含めてキャリアの選択肢が増えています。自分が3年後、5年後にどんな経験をしていればいいのか、考えておくと企業に入った後も、迷うことなく進んでいけるでしょう。
僕は当初から目標としていた「海外に行く」が叶えられたので、後悔のない、良い商社時代だったと思っています。ぜひ皆さんも、自分が会社に何を求めているのかを明らかにしてみてください。
▼商社マンのキャリアパスを知りたいあなたへ
【ONE CAREER PLUS】では総合商社からの転職事例を複数掲載しています。
総合商社マンの転職先を知りたい方は、以下を参照してください。
ONE CAREER PLUS『三菱商事/転職体験談』(別サイトに遷移します)
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